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コーカサスの山と人<下>

コーカサス2★コーカスの山と人<下>
山に登る。そしてお別れ‥‥

通訳をしかる

 7月16日、荷上げ。一行は14人。私たち10人の日本人とニコライ、ギャナディ、それにインストラクターのボリス、1級アルピニストで、救急隊のスタス・ババスキンである。
 歩き出して10分と行かぬうちに、私は後悔した。「しまった。こんなもの持つんではなかったわい」
 荷分け係が、「隊長、サラミソーセージ10本とバターを2個、お願いできますか」なんだそれくらいと思ってOKしたのが間違い。現物を見て驚いた。
 サラミは、普通の倍近くの太さで、ミレーザックからはみ出すほど長かった。バターは、一つが食パンの倍くらいの大きさだったのだ。けれど、皆はもっと沢山持っているし、私より年寄もいるとあっては、とても不服などいえたものではない。
 半時間と行かぬうちに私は落伍した。どうせ今日は中間点にデポするだけ。ゆっくり行けばよい。そう思って、シヘリダ氷河の融水が濁流となって、たぎり流れるのをはるか左下に見ながら、私は針葉樹林の間を登って行った。
 突然、行手の樹の根元からニコライが立ち上がった。「荷物を持ちます」彼のザックはなかった。空身のギャナディに渡して、私を待ち受けていたらしい。
「ニェット、スパシーバ(いや結構)」
「持ちましょう」ニコライは繰り返し、私も「いやいらん。ワシが持つ」と繰り返した。
 私がこの彼の好意を受けるのをためらったのには、理由があった。「通訳はそれ以外の仕事はしなくてよい。通訳を完全にやれ」と彼をしかりつけたことがあったからだ。一昨日のこと。日本隊は、フランス隊と一緒にイトコールへ出かけた。イトコールホテルでは、ソ連山岳連盟副総裁を交じえて、レセプションが行なわれた。
 ここではっきりと分った。ニコライとフランス隊付の通訳とでは、全然態度が違うのだ。ニコライはこちらから催促しないと通訳しないで、タバコをふかしていたりした。
 向こうは本職でニコライはアルバイト、そういうことではない違いがある。これに気づいたとき、これは一言いっておかないといけないと思った。
「ニコライ、君の仕事は何なんや」「どうしてそんなこと開くのですか?」彼は少々気色ばんだ。「今日の君の通訳はまるでだめや。フランス隊を見てみ」
 すると彼はムッとして、「そんなことはないんです。去年にはそんなことは一回もいわれなかったんです」
「いいか、ニコライ。去年は去年、今年は今年や。お前は通訳やないか。お前一体何しに来たんや」私も少々頭に血がのぼってきた。
「ボクは、皆さんが山に登る手続きや、ルートの打合せを助けるんです。今日のようなのは何ですか! 何の意味もない。無意味なスピーチですね」

<ウシバ・コルより見たエルブルース山。下はシヘリダ氷河>エルブルース山 私は頭にきた。「無意味でも有意味でもお前の知ったことか! お前の仕事は通訳や。通訳というのは、オレたち10人の日本人の耳と口になることや。それだけを考えたらいい。それだけが仕事や。それがいやなら、サッサとモスクワへ帰ったら,ええやないか。お前なんか必要あらへん」
 ニコライはこしゃくにも真っ赤になって怒った。こぶしを振りながら、全く意味をなさない日本語をどなった。「ボクは、そんな、ぜんぜん、ないんです! どうしても、なぜ、あるんです!」
 私はモスクワ船での、日本語を喋るヒッピー風の若いアメリカ人とのケンカを思い出した。たしか、キリスト教とベトナム戦争が話題だった。それにしても、自国語でのケンカは、何と楽なんだろう。

 

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コーカサスの山と人<上>

コーカサスタイトル1★コーカスの山と人<上> モスクワからエルブルースへ

モスクワにつく
 コーカサスへ地図1971年7月10日午後、私たち10人の第2次RCC遠征隊は、モスクワ郊外のドーモチェドモ空港に降り立った。横浜を出てから三日目だ。
 私たちを出迎えたのは、スコロフ、ギャナディ、ニコライの三人のソ連人。スコロフとギャナディは、私たちを招待した「プロスポルト国際部」のスタッフである。ニコライは、モスクワ大学極東語科の四年生で、日本語専攻。私たちの通訳をやることになっている。ニコライは開口一番、「タカダさん、男は黙ってサッポロビールですね」これには全く、あっけにとられてしまった。
 しかし、とにかく日本を出れぼ、言葉で優越されることは、すべてに負けることを意味する。桑原武夫氏は、チョゴリザ遠征のとき、フランス語の少しでも分る相手には、徹底してフランス語で通し、苦手の英語は使わなかったと述べている。
「お前それ、どこで覚えたんや」180センチをはるかにこえている彼を見上げて、私はいったが、「週刊誌で読みました」とすましたものである。
 ここ何日間か、外国人とのコミュニケーションに、苦痛を感じていた隊員たちは、ワッとばかりに彼を取り囲んだ。
 ギャナディは、ドイツ語の方で英語はダメだが、スコロフはかなりうまい。「アイアム、スコロフさん」と自己紹介してから、ペラペラとまくし立て、どこで知ったのか、東京のトルコ娘やアルサロなどの話題に、話を落とした。人の意表をつく、たくみな話の展開だ。そして、「近々に東京に行くからよろしくたのむ」などとふざけた。
 これは明らかに、初対面の相手よりも心理的に優位に立とうという、一つのテクニックだ。こういうときには、最初の数分間で、勝負が決まる。
「よし分った」と、私はいった。「君の希望がかなえられるかどうかは、君の私たちに対する接待いかんによって決まるだろう」
 キングス・イングリッシュでもパキスタン英語でも、相手に分ろうと分るまいと、いっこうに構わない。とにかく負けずにべラベラと、相手がへきえきするぐらいに、やり返しておくことにした。
 ホテルについてからのことなのだが、レセプションのあとで食事をしながら、「ところで、君はどのスポーツが専攻なのか」と、私は尋ねた。プロスポルトの職員ならスポーツ関係だろうと思ったのだ。
 諸君、彼は何と答えたと思います? 彼は間髪入れず、「オフコース、ファッキング」
 いやまいったまいった。さすがは、国際部のスタッフだけのことはある。私はひそかに、脱帽せざるをえなかった。



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コーカサスの山と人の紹介・説明

「コーカサスの山と人」<上><下>
           
『なんで山登るねん』に〈三十なかば変身のきっかけはコーカサスのショック〉という章があります。
 1965年、京都山岳連盟カラコルム登山隊の最年少隊員として、初めて海外に出た私は、カルチャーショックを受けます。
 この4年後、1969年に「西パキスタンの旅」に出かけます。
 さらに二年後の1971年、旧ソ連邦・コーカサスに出かけたときの報告を、読み物として山渓本誌に2回に分けて連載したのが、『コーカサスの山と人』上・下です。
 当時、前衛登山集団として、自他共に許した「第二次RCC」が、ソ連の招待を受け、コーカサスに遠征し、登攀を行ったときのもので、私はこの「第二次RCCカフカズ遠征隊」の隊長でした。
 この時の初めてのヨーロッパは、ぼくにとっては初めての、東南アジアやインド・パキスタンなどのアジア圏などではない、その外の体験でした。
 さらに、ソ連邦(旧)は、アジア圏外の国というだけではなく、いわゆる冷戦構造下の東側の国でした。そこで肌で感じたものは、日本で常識のように言われ信じられていることと、実際とのあまりに大きなギャップだったようです。
 〈コーカサスのショック〉とは実はそうしたものであったと今思うのですが、どうしてかぼくは余りこうしたことに関しては書いてはいません。
コーカサスの山と人<上>  
コーカサスの山と人<下>          

登山と「神話」

 登山と「神話」は山と渓谷社の季刊誌『岩と雪』に、38号から43号(1974年10月〜1975年6月)の6回にわたって連載したもので、当時けっこう話題となったものです。
『なんで山登るねん』よりずっと良い、という岳人もたくさんいました。ぼくとしては、『なんで山登るねん』の基盤となっている理屈を述べたつもりだったのですが・・・。

◎登山と「神話」(全6回)
その1 スポーツ神話について
その2 宗教登山の位置づけについて
その3 『槍ヶ岳からの黎明』について
その4 「山での死」について
その5 『ホモ・ルーデンス』について
その6「シェルパレス登山について」は割愛しました。

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