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ルーフキャリー、遂にゲット!

5月2日
 これはすでに書いたことなのであるが、昨夜突然差し歯の脱落があり、カンタカルロ歯科に行くことになった。指定された時間12時30分に行き、治療完了12:00。
 大急ぎでルーフキャリーのあるAUTO ACASに行きたいのだが、AUTO ACASは昼休みに入り、開くのは午後3時。しかたない。クーネオの大通りのバールに入りお茶で時間待ちをする。
 AUTO ACAS着午後3時。
 在庫がないので、トリノから取り寄せると入荷は月曜日になるという。ぼく達のイタリア出発は日曜日、間に合わない。すぐに取りに行かないといけないということになった。このこともすでに書いた。

 急がねばならない。ぼく達は、大急ぎでクーネオの町を出て橋を渡り、高速道路にのるべくフォッサノ・インターへと向かった。川沿いを1時間足らず走って、16時、トリノへの高速道路に入ることが出来た。
 トリノ、ミラノ、あるいはアオスタ渓谷からフランス・シャモニーなどへと繋がるこの道は、広くまっすぐで走りやすい。眼前には、遥かむこう視野いっぱいに、フランス国境のアルプスの山々がかすんでいる。
 クーネオでは、トリノの市街地図を入手できなかったので、途中のサービスエリアで購入した。
 AUTO ACASで教えられたのは、件の店はVIA BALTIMORA通りにあり、その通りに行くには、Corso Orbazznoで高速道路を降りろということだった。
 けっこう必死で地図で確認。

DINAMICA Trino.jpg 140kmくらいでぶっ飛ばしてトリノに着き市街に入る。かつてトリノに滞在した時の経験から簡単にたどり着けるとは思っていなかったのだが、けっこう奇跡的にすんなりとお店に着くことが出来た。トリノのダウンタウンからは、南西方向に少し離れたところで、工場と団地があるような、ちょっと殺風景な一角にあるそのお店の名はDINAMICAだった。

DINMICA Trino受付2.jpg お店に入るとすでに品物は用意してあった。けっこう大きい箱で、重さは10kg。ビスなどの付属品を全てチェックしてから、飛行機で日本にもって帰るから、しっかりパッキングしてと頼む。おじさんが2人掛かりで、完璧なパッキングをしてくれた。




梱包と共に2.jpg 対応してくれたおじさんと一緒に記念写真を撮ろうとすると、みんなが囃し立てる。みんなとっても人懐っこい人たちだった。
 イプシロンのアクセサリー情報が日本にないため、パンフレットが欲しいというと、みんなして探してくれて、少し油で汚れたようなパンフレットを見つけてくれた。みんな親切である。どうも日本人が珍しいらしい。

 とうとう手に入った。満ち足りた気分でぼくは、クーネオに戻るべく夜の高速道路をゆっくりと走っていた。

イプシロンのルーフキャリー

 イタリアの高級車ランチアの小型車イプシロンを買ったのは、ちょうど一年前だった。
 ランチアといえば、ヘミングウェイの愛車だったし、白州次郎の父親が花嫁の白州正子に結婚プレゼントしたのもこの車だった。そんな風で、ヨーロッパでは誰でもが知っている名車なのであるが、何故か日本ではあんまり知られていない。
ランチア・テーマ.jpg ぼくが、15年間乗っていたランチア・テーマという車は、日本でもたいそう人気があって、テーマクラブという愛好者のクラブが、テーマが消えてもう10年以上も経つのに、今も健在で活動を続けているようである。
 数年前、ランチア・テーマを手放すことにしてこのクラブに欲しい人にはあげますというメールを書いた。すると、3人の人が名乗りを上げ、そのうちの一人、つくば市の歯科医のSさんが、取りにおいでになった。
 イタリアでは、一番の大衆車はフィアット、高級車はアルファ・ロメオとランチアということになっている。
 リモネットに行きだした頃、クーネオに向かう道の途中のクーネオ郊外にランチアの大きな修理工場があった。何度かはここから部品を買って持って帰ったりした。しばらくしてこの工場はなくなった。ランチア経営はは調子が良くなかったようである。
 起死回生を願って出て来たのが、イプシロンである。何回かのモデルチェンジがあって、なかなかよくなって来た。
レンタルイプシロン.jpgイプシロン運転席2.jpg 数年前、その時はニースでシトローエンを借りていたのだが、イプシロンを2日間借りて、ラモッラまで走ってみた。なかなか快調だった。





















 そこで、昨年の夏、2年間乗ったアルファ・ロメオを娘婿に譲り、イプシロンを買うことにした訳である。買ったばかりのイプシロンに乗って、教え子のM君がやっているケンズモーターに行ったら、さっそくKenz Motersのホームページに写真を載せた。やはりかなり珍しい車のようである。

 すぐにスキーシーズンがやって来た。アルファの時にはあまり気にならなかったスキーの車内搭載がイプシロンでは苦しい。載るには載るのだが、やはりゆとりがないし、上等の布シート素材が痛むのも気になったりした。
 そこでルーフキャリーを買おうとした。ところがこれがないのである。まだ輸入したことはないし、あることはあるようなのですが・・・という話。よし、そんなら自分で探そう。

 えらく長い前置きになってしまったが、ここからが本題で、今回イタリアでこのランチア・イプシロンのルーフキャリーを探しまわって、買って持ち帰るお話です。
 まずは、場所を探す。人に訊くのが早いだろうと、その日出かけた知り合いの帽子屋のおっちゃんに訊く。その場所に行くと確かに自動車屋さんではあったが、そういうものは置いてなかった。でも、それならと、別の場所を詳しく教えてくれた。
 そこは、たしかに前によく行ったランチアの工場の感じのディーラーだった。奇麗なお姉さんが何人かいて、そのうちの一人が、みんなに背中を押されて進みいで、イタリア人にしてはかなり上手な英語で、「ここにはありません。直ぐそばの整備工場に行ってください」と道を教えてくれた。
イプシロン整備工場.jpg そこは、立派な整備工場で、天井まで届く部品の陳列棚があった。でも、これまでの4カ所の探索に時間を費やしたので、午後5時を廻り、担当の係員は帰った後だった。また明日に来てくださいということだった。





イプシロンカタログ.jpg しかし収穫はあった。ここで初めてイプシロンの部品カタログを見ることが出来、イプシロン純正のルーフキャリーを写真で確認できたのだ。
 ぼくはなおも諦めず、別のディーラーも回ったが、品物はなかった。もうスキーシーズンは終わっており、在庫がないのは、当然だった。


イプシロン部品受付.jpg 翌日の昼過ぎ、先日の工場に出かけた。担当の係員は在庫をチェックし、ないと言った。明後日には取り寄せられるという。でもその前日の深夜には、日本に向け出発しなければならない。
 「どこに行けばあるの」
 「トリノ」
 では、トリノに行こう。受付のお兄さんは、直ちにトリノに電話し、道順を訊き、メモし、ぼく達がルーフキャリーを入手できるすべての手配を完璧にやってくれた。

歯医者カンタ・カルロ先生

 <ヨーロッパの旅とスキー(2007)>の「歯医者に行く」に書いたように、さし歯に故障が起こったのは、昨年(2007)の1月のこと。
 ちょうど1年と数ヶ月前のことだった。
 「遠い国からのお客さんからお金は取れません」といって、治療費を受け取ろうとしなかったのは、クーネオの開業歯科医カンタ・カルロ先生だった。
 日本に帰って知り合いの歯科医の友人などに、この話をしたら、誰もが日本では信じられない話だと言った。それを聞いて、なにかお礼の品を送るべきだとは考えたものの、何がいいか思い当たらなかった。
 今回のイタリア行きの出発日が近づいて、そのプレゼントの決定を迫られ、ようやく決めたのが、浮世絵の額であった。
ポッピンを吹く女.jpg ネットで探したらいい物が見つかった。喜多川歌麿の「ポッピンを吹く女」。ポッピンというのは、江戸時代から庶民に親しまれた欧州伝来のガラス細工である。
 その時代ガラスはポルトガル語でビードロと呼ばれたが、その鳴らす音からポッペンとも呼ばれた。これもネットで買えるので、付けることにした。
 オランダかポルトガルかは知らないが、欧州伝来の玩具で遊ぶ女性の浮世絵。これはまったくいいアイデアではなかろうか。









 そもそも浮世絵とは、日本が世界に誇れる特別な芸術である、とぼくは思っている。それはどういうことなのかを説明してみよう。
ポッペン.jpg その時代、パリに匹敵する大都市は江戸であったと言われている。でも、ぼくにいわすれば、江戸に匹敵するのが、パリなのである。たとえば、その大衆の食の多様さと文化度に於いて。
 浮世絵では、その遠近法や巻き上がる波の向こうの富士山などの技法は、欧州の絵描きの驚嘆を呼び、その地にジャポニスムいわゆる日本心酔をよぶ。
 スコットランドの友人、ジャニス・フォーサイスの邸宅には梅の木や花魁を描いた油絵があった。彼女によれば、スコットランドには、4人のジャポニスムに心酔した絵描きが存在し、この絵はその一人の作だという。
 ジャニスが日本に関心を持ち、日本に憧れ、一人娘の幼稚園の学芸会に着物を着せるまでの日本ファンになったきっかけは、この一枚の油絵だったという。ジャポニスムはたんなる一時的な流行ではなく、30年以上も続いたルネッサンスにも匹敵するような芸術的な潮流であったのだ。
 だがしかし、ぼくが強調したいのは、ジャポニスムの元となった浮世絵が一部の上流階級のものではなく、庶民大衆が楽しむためのものであり、庶民大衆はそれだけの鑑賞眼を持ちあわせる存在であった点である。
 これだけを考えても、パリとの比較に於ける優劣は明らかであろう。
 話が少々脇にそれた感がある。元に戻そう。

 さて、というわけで、リモネットに着いた翌日、ぼくはクーネオに出向き、件(くだん)の浮世絵の額とポッペンをカンタ・カルロ先生に届けた。
 カルロ先生は、「こんなもの貰い過ぎではないですか。たいしたこともしていないのに」と恐縮されていた。そして、
 「ところで、歯の方はその後いかがですか」と訊いた。
 「いえいえ、問題はないです」とぼくは答えた。
 ところが、である。その翌日の木曜日の夜、ぼくの前歯は、突然ぽろりと抜け落ちたのである。まったく驚いた。何となく間が良すぎる、いや間が悪すぎるというべきか。
 イタリアは、ちょうど今日が5月1日のメーデーのナショナルホリデー。イタリア国民はこの日から少なくとも10日間のバカンスを取るのが通例であるという。カンタ先生も今日辺りからバカンスに出かけて留守だろう。
 これはえらいことになった、とぼくはあわてた。
 とにかく明日開いている歯医者を捜さなければならない。今回さし歯が抜けただけだから、英語のしゃべれる歯医者は必ずしも必要ではない。
 大体開いてる歯医者が、クーネオで見つかるのか。期待薄である。
 もし見つからなければ、国境越えでニースまで行って、ホテルのコンシアージにでも探してもらおう。そう思って、その夜は眠りについた。
カンタ表札1.jpg 翌朝、その日は休診日だと分かっていたが、ダメモトでとカンタ・カルロ先生に電話した。急患用の留守電もあるかもしれない。
 驚いた。カンタ先生が出て来たのである。
 「必要な書類を忘れたので取りに来たところです。そうですか。12時30分にいらっしゃい。1時30分から用事があるけれど、とにかくいらっしゃい」
カンタ階段.jpg なんという幸運、神様仏様のご加護。ぼくは、舞い上がってクーネオに向かってBMWを駆った。
 会うなり、彼は先日のプレゼントのお礼をいった。「先日のあの額、家内が見て、素晴らしいものよと喜んでいました。ありがとう」
 治療台に座る。
 「歯にはまったく問題はありません。接着剤が外れただけです。15分で直りますよ」
カンタ表札2.jpg そういうと、かれは戸棚を開けて探し物を始めた。今日は休診日でいつもは3人もいる看護婦さんがいないのだ。
 5分以上経って、接着剤の瓶を持って戻ると、「接着剤には沢山種類があるんだけど、僕はこれが好きなんで」などといった。
 あれこれと探し物が色々あって、15分で終わるはずの治療は、結局占めて30分を要した。
カルロ先生とぼく.jpg 「治療代を払わないといけません。おいくらか言ってください」
 「いえいえ、代金は先日頂いたプレゼントで余ってますよ」
 「そんなことで、お代を取って頂かないと、ぼくは次に来た時に二度目のお礼を持ってこないといけなくなります」とぼくは言った。するとカンタ先生は、
 「とんでもない。次にいらっしゃった時には連絡してください。ランゲのレストランの食事にご案内しますから」
 「ほんとですか。楽しみにしています」とぼくは答えた。

リモーネの人々

 リモーネ・ピエモンテに来るようになって10年近い年月が経った。知り合いの人たちも出来て来た。そこで、この地で近しくなった人たちについて書いてみることにする。

ペッペさんとぼく.jpg ペッペさんは、リモーネ・ピエモンテで一番のホテル、エクセルシオールのマネージャーである。ぼくが初めてこの地にやって来たとき、最初に接触した人で、とても人なつっこい笑顔が印象的だった。
 この写真より二人とももう少し若かったと思う。この地区の役員だそうで大変親切で面倒見がいい。
ソムリエベッペさん.jpg アパート購入時のブリーフィングには、売買当事者だけではなくノータリー(公証人)と英語が話せる二人のウィットネス(立会人)が必要で、そのうちの一人は英語がしゃべれる人が必要であった。
 ベッペさんは、この辺では数少ない英語が達者な一人だったので、お願いしたら快く引き受けてくれた。
 夜になると、ホテルのレストランのソムリエに変身した。


マリア・テレーザ家族.jpg アパートがあるリモネット村にはただ一軒のレストランがあった。そのオーナーはマリア・テレーザという快活なおばさんで、彼女はまた直ぐそばの2LDKのフラット(別荘用アパート)の所有者でもあった。ともは彼女からこのフラットを買い取ったという訳である。
 この写真は、マリア・テレーザのレストランのテーブルで彼女の家族とのパーティーでのワンショット。彼女の旦那のジャンカルロと娘のアレッシアが写っている。
モナコ王子.jpg この部屋には、モナコ王子(グレース・ケリーの息子)を挿んだ夫婦の写真が掲げてあって、グレースケリーも時々やって来たという。
 数年後に、彼女はレストランを売り払って、息子がいるミラノの東にあるブレシアに移ってしまった。



マリオとぼく.jpg マリオは、クーネオにある不動産会社フォンド・カーサの社員で、フラット売買を世話した人である。
 英語はあまり出来ないので、意思疎通が大変であった。いつも持参した小型の英語辞書を必死でめくりながら話した。
 彼の口癖は、I can not understand. 一分間に数回の「アイ、キャンノット、アンダースタンド」が繰り返された。ぼくが、しかし、感心したのは、彼は決して独り合点や早とちりはしなかったことである。
 すこしでも、聞き取れないこと、理解できないことがあると、アイキャンノット、アンダースタンドという。約2年近くかかったアパートの売買交渉や手続きが、たいした蹉跌もなく順調に完了したのは、彼によるところが大きいと思ったことだった。
 単に不動産会社の社員というだけのことで、その仕事はとっくに終わっているはずなのに、いまでも頼めばいろいろと面倒を見てくれる。きっと親切な人なのだろう。
 お母さんは、幼稚園の園長さんだそうである。

山上のレストランパーティ.jpg ホテル・エクセルシオールのお客はみんなといっていいくらい常連客なのだが、この写真の左端の男は、イギリス人のスティーブ。香港で音楽プロデュースの仕事をしている。
 リモーネ・ピエモンテのスキー場が気に入って毎年のように通いつめ、イタリア語も自然に習得したという。奥さんは、マレーシア系のイギリス人で、ファッションモデルだそうである。母親を含めた家族で来ることも多いらしいが、そのファッションモデルの奥さんと顔を合わせたことはまだない。
 ぼくが最初にスキーに来たとき、スキーガイドとして、ベッペさんが紹介してくれたのが、このスティーブだった。
 ちょうどその時、ともの誕生日がやって来たので、みんなを招待して近くの山上レストランでパーティを開いた。
 左端スティーブの隣は、ベッペさんの奥さんのエリザ。右端はとも、隣がマリオである。中央はベッペさん。
肉屋さん夫婦.jpg リモーネ・ピエモンテの馴染みのお肉屋さんには、とても美味しいプロシュート・クルード(生ハム)がある。肉屋さんは2軒あるのだが、もう一方のプロシュートは塩味がきつくてあまり好きではない。一度プロシュートを買ってからは二度と行ったことはない。
 さて、この教会の裏手のお肉屋さんの奥さんカルラは、とても世話好きで、美味しいレストランはどこだとか、いろいろと教えてくれる。出身がランゲ地方なので、その地の有名な美食の村ラモッラのことなど、ガイドブックなどを出してきて細々と教えてくれる。
 昨年の雪不足の年などは、どこのスキー場に雪があり、どう行けばよいかなど、行くたびに懇切に教えてくれた。
 こちらがなにか聞こうものなら、二階に駆け上がり資料を抱えて降りてくる。
 はじめの頃は、英語などまったく通じなかったのだが、最近は旦那のジャコモが、
「See you tomorrow」などというので、驚いた。
 「あんた、英語しゃべれるではないか」
 「いやいや、あんた達と話さないといけないので勉強してるんです」
 いやいや、「ブラーボ、モルトベーネ!」でありました。
カルネクルーダ.jpg ここのステーキ肉は、白い脂身のまったくない赤身のピエモンテ牛なのだが、これが焼くと、じんわりと脂がのった味でなんとも美味なのである。
 また、高級レストランの前菜にもよく出るカルネクルーダ(生肉)も美味しくて、毎日でも食べたいほどである。
 200gほどをオーダーするとミンチにしてくれる。
 上等のレストランでは、とんとん叩いて切っているようだが、ミンチにしてもらえば、皿に盛ってオリーブ油とパルミジャーノの振りかけるだけ。実に簡単でいい。
都をどり.jpg 今回、都をどりのポスターを持参してプレゼントしたら、早速店に張り出した。
 そして、帰りの挨拶に出向いたらお返しにと、最近出版されたというピエモンテの写真集をプレゼントしてくれた。





アルド氏.jpg ノータリー(公証人)のアルド氏とは、最初の頃から世話になった。公証人は不動産売買には不可欠で、そのすべてを取り仕切ることになる。
 最初に会った時から、「日本の肉はおいしい」といい、いつも神戸牛だけではなくて、京都の牛も美味しいなどといった。
 だから次の時には、上等のステーキ肉をお土産に持って行った。すると彼は、クーネオで一番のレストランに招待してくれた。こうしたことが繰り返され、今では、なんだか慣例のようになっている。
 ぼくは当然彼は日本に来たことがあると思っていた。実は来たことはないのを知ったのは大分後のことだった。ぼくは驚いて、でも「日本の肉はおいしい」と言ったではないか、と質したら、そんなことは誰でも知ってるだろう、と答えた。
アルド事務所回廊.jpg アルド氏の事務所は、クーネオの中央広場に面した町の中心にある。
 黒のメタルに金文字の大きな表札の脇の木の扉を開けて中に入る。






アルド氏ドア.jpg 薄暗い階段を上がると、NOTAIO(公証人)アルド・サロルディとガラスに書いてあるドア。















アルド氏待合室.jpg このドアの中は待合室になっている。
 その奥に彼の部屋と事務の女性数人がいる部屋がある。







アルド氏の部屋.jpg 「今年になって2階から3階に部屋替えしたから少し広くなったでしょ。それに光も沢山入って明るいし」と彼はうれしそうだった。








薪のおじさん.jpg うっかりして忘れていたのだが、最重要な人物がいた。
 リモネット村の住人で、ぼくが勝手に「薪のおじさん」と呼んでいる人である。名前は、たしかルイージという。
 リモネットやリモーネピエモンテで、薪を入手するのは困難である。売っている店がない。この地に着いて、最初にしないといけないのが、暖炉用の薪の手配。
 アパートは勿論セントラルヒーティングなのだが、夜の10時から朝の6時までは、暖房は切れる。冬はもちろんのこと、夏であっても、時としては、暖房が欲しくなるのだ。
 薪のおじさんは、薪用の倉庫コンテナーを持っていて、充分の備蓄がある。アパートからおじさんの家までは、5分くらい。まったく英語は駄目なので、最初は「レーニャ(薪)、レーニャ」を繰り返していたのだが、最近では何も言わなくても分かるようになった。

リモネーゼとクネーゼ

 リモネット村にほとんど毎年滞在するようになって、もう7年以上もたった。
 リモネット村というのは、イタリア・フランス国境の僻村である。ここで、その地理というか位置を説明してみよう。
 PMN-Mappa.png イタリアの長靴の付け根、地中海に面した都市ジェノバの西方約200キロ、トリノの南方約100キロのところに、イタリア・ピエモンテ洲クーネオ県の県都クーネオ(Cuneo)がある。

 limonePiemonteMap.jpg クーネオから真南へ向かうと国境のテンダ峠トンネルを過ぎ100キロすこしで、コート・ダジュール(紺碧海岸)の海岸線に達し、モナコやモンテ・カルロがある。ここから西に30キロたらず海岸線を辿ると、南フランス・プロバンスの名高いリゾート、ニースに達する。

 さて、クーネオの町は、南から西にぐるりと山々に取り巻かれており、この標高2000mから3000mの国境山脈は、北に連なりモンブランやマッターホルンに繋がる。
 DSC00410_1.JPG ところで、このクーネオから南の国境稜線の山に向かって27キロ走ったところにあるのが、有名リゾートのリモーネ・ピエモンテ (Limone Piemont)で、冬はスキー客、夏は避暑客で賑わう。

 リモーネ・ピエモンテの町からさらに南へ国境の山に向かって、「日光いろは坂」よりもっときついヘヤピンカーブの連続を登った辺りから右に別れて1キロばかり走った所にあるのがリモネット村である。たぶん、テンダトンネルが開通するまで、フランスからの旧道は旧峠を越えてこの村を経由していたと思われる。しかし開通後は、袋小路の村となってしまったようである。
 どんずまりには、国境の山の山腹に開けたリモネット・スキー場があって、リモーネ・ピエモンテスキー場にも繋がっている。
 
リモーネバザール.jpg リモーネ・ピエモンテの地の人は、自分たちのことをリモネーゼと呼んでいる。まあいってみれば「リモーネ人」で、イタリア人ではなくリモーネ人だというのである。クーネオの人たちは、同じように自分たちのことを「クネーゼ」クーネオ人と呼ぶ。
 ここの住人は、ほとんどみんなフランス語を話すし、イタリア語もピエモンテ訛りと呼ばれるフランス語のような訛りがあるといわれる。

 このようなことは、ピエモンテに限らず、世界各地にあるようだ。
 たとえば、アメリカ東海岸のボストンでは、「俺たちはアメリカ人ではなくボストン人(ボストニアン)だ」という言葉を何度も聞いた。京都では、京都弁があり京都人というのが存在する。

 当地で経験したいろいろの話を、日本人でイタリアに留学していたり、イタリアに詳しい人達にしにした時に、一様に聞いた言葉は、「信じられない。とてもイタリアの話とは思えない。それはイタリア人ではないよ」というものだった。
 やはり、ピエモンテ洲のクーネオやリモーネ・ピエモンテあるいはリモネットは、極めて特殊な場所なのかもしれない。

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