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コーカサスの山と人<下>

コーカサス2★コーカスの山と人<下>
山に登る。そしてお別れ‥‥

通訳をしかる

 7月16日、荷上げ。一行は14人。私たち10人の日本人とニコライ、ギャナディ、それにインストラクターのボリス、1級アルピニストで、救急隊のスタス・ババスキンである。
 歩き出して10分と行かぬうちに、私は後悔した。「しまった。こんなもの持つんではなかったわい」
 荷分け係が、「隊長、サラミソーセージ10本とバターを2個、お願いできますか」なんだそれくらいと思ってOKしたのが間違い。現物を見て驚いた。
 サラミは、普通の倍近くの太さで、ミレーザックからはみ出すほど長かった。バターは、一つが食パンの倍くらいの大きさだったのだ。けれど、皆はもっと沢山持っているし、私より年寄もいるとあっては、とても不服などいえたものではない。
 半時間と行かぬうちに私は落伍した。どうせ今日は中間点にデポするだけ。ゆっくり行けばよい。そう思って、シヘリダ氷河の融水が濁流となって、たぎり流れるのをはるか左下に見ながら、私は針葉樹林の間を登って行った。
 突然、行手の樹の根元からニコライが立ち上がった。「荷物を持ちます」彼のザックはなかった。空身のギャナディに渡して、私を待ち受けていたらしい。
「ニェット、スパシーバ(いや結構)」
「持ちましょう」ニコライは繰り返し、私も「いやいらん。ワシが持つ」と繰り返した。
 私がこの彼の好意を受けるのをためらったのには、理由があった。「通訳はそれ以外の仕事はしなくてよい。通訳を完全にやれ」と彼をしかりつけたことがあったからだ。一昨日のこと。日本隊は、フランス隊と一緒にイトコールへ出かけた。イトコールホテルでは、ソ連山岳連盟副総裁を交じえて、レセプションが行なわれた。
 ここではっきりと分った。ニコライとフランス隊付の通訳とでは、全然態度が違うのだ。ニコライはこちらから催促しないと通訳しないで、タバコをふかしていたりした。
 向こうは本職でニコライはアルバイト、そういうことではない違いがある。これに気づいたとき、これは一言いっておかないといけないと思った。
「ニコライ、君の仕事は何なんや」「どうしてそんなこと開くのですか?」彼は少々気色ばんだ。「今日の君の通訳はまるでだめや。フランス隊を見てみ」
 すると彼はムッとして、「そんなことはないんです。去年にはそんなことは一回もいわれなかったんです」
「いいか、ニコライ。去年は去年、今年は今年や。お前は通訳やないか。お前一体何しに来たんや」私も少々頭に血がのぼってきた。
「ボクは、皆さんが山に登る手続きや、ルートの打合せを助けるんです。今日のようなのは何ですか! 何の意味もない。無意味なスピーチですね」

<ウシバ・コルより見たエルブルース山。下はシヘリダ氷河>エルブルース山 私は頭にきた。「無意味でも有意味でもお前の知ったことか! お前の仕事は通訳や。通訳というのは、オレたち10人の日本人の耳と口になることや。それだけを考えたらいい。それだけが仕事や。それがいやなら、サッサとモスクワへ帰ったら,ええやないか。お前なんか必要あらへん」
 ニコライはこしゃくにも真っ赤になって怒った。こぶしを振りながら、全く意味をなさない日本語をどなった。「ボクは、そんな、ぜんぜん、ないんです! どうしても、なぜ、あるんです!」
 私はモスクワ船での、日本語を喋るヒッピー風の若いアメリカ人とのケンカを思い出した。たしか、キリスト教とベトナム戦争が話題だった。それにしても、自国語でのケンカは、何と楽なんだろう。

 

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コーカサスの山と人<上>

コーカサスタイトル1★コーカスの山と人<上> モスクワからエルブルースへ

モスクワにつく
 コーカサスへ地図1971年7月10日午後、私たち10人の第2次RCC遠征隊は、モスクワ郊外のドーモチェドモ空港に降り立った。横浜を出てから三日目だ。
 私たちを出迎えたのは、スコロフ、ギャナディ、ニコライの三人のソ連人。スコロフとギャナディは、私たちを招待した「プロスポルト国際部」のスタッフである。ニコライは、モスクワ大学極東語科の四年生で、日本語専攻。私たちの通訳をやることになっている。ニコライは開口一番、「タカダさん、男は黙ってサッポロビールですね」これには全く、あっけにとられてしまった。
 しかし、とにかく日本を出れぼ、言葉で優越されることは、すべてに負けることを意味する。桑原武夫氏は、チョゴリザ遠征のとき、フランス語の少しでも分る相手には、徹底してフランス語で通し、苦手の英語は使わなかったと述べている。
「お前それ、どこで覚えたんや」180センチをはるかにこえている彼を見上げて、私はいったが、「週刊誌で読みました」とすましたものである。
 ここ何日間か、外国人とのコミュニケーションに、苦痛を感じていた隊員たちは、ワッとばかりに彼を取り囲んだ。
 ギャナディは、ドイツ語の方で英語はダメだが、スコロフはかなりうまい。「アイアム、スコロフさん」と自己紹介してから、ペラペラとまくし立て、どこで知ったのか、東京のトルコ娘やアルサロなどの話題に、話を落とした。人の意表をつく、たくみな話の展開だ。そして、「近々に東京に行くからよろしくたのむ」などとふざけた。
 これは明らかに、初対面の相手よりも心理的に優位に立とうという、一つのテクニックだ。こういうときには、最初の数分間で、勝負が決まる。
「よし分った」と、私はいった。「君の希望がかなえられるかどうかは、君の私たちに対する接待いかんによって決まるだろう」
 キングス・イングリッシュでもパキスタン英語でも、相手に分ろうと分るまいと、いっこうに構わない。とにかく負けずにべラベラと、相手がへきえきするぐらいに、やり返しておくことにした。
 ホテルについてからのことなのだが、レセプションのあとで食事をしながら、「ところで、君はどのスポーツが専攻なのか」と、私は尋ねた。プロスポルトの職員ならスポーツ関係だろうと思ったのだ。
 諸君、彼は何と答えたと思います? 彼は間髪入れず、「オフコース、ファッキング」
 いやまいったまいった。さすがは、国際部のスタッフだけのことはある。私はひそかに、脱帽せざるをえなかった。



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コーカサスの山と人の紹介・説明

「コーカサスの山と人」<上><下>
           
『なんで山登るねん』に〈三十なかば変身のきっかけはコーカサスのショック〉という章があります。
 1965年、京都山岳連盟カラコルム登山隊の最年少隊員として、初めて海外に出た私は、カルチャーショックを受けます。
 この4年後、1969年に「西パキスタンの旅」に出かけます。
 さらに二年後の1971年、旧ソ連邦・コーカサスに出かけたときの報告を、読み物として山渓本誌に2回に分けて連載したのが、『コーカサスの山と人』上・下です。
 当時、前衛登山集団として、自他共に許した「第二次RCC」が、ソ連の招待を受け、コーカサスに遠征し、登攀を行ったときのもので、私はこの「第二次RCCカフカズ遠征隊」の隊長でした。
 この時の初めてのヨーロッパは、ぼくにとっては初めての、東南アジアやインド・パキスタンなどのアジア圏などではない、その外の体験でした。
 さらに、ソ連邦(旧)は、アジア圏外の国というだけではなく、いわゆる冷戦構造下の東側の国でした。そこで肌で感じたものは、日本で常識のように言われ信じられていることと、実際とのあまりに大きなギャップだったようです。
 〈コーカサスのショック〉とは実はそうしたものであったと今思うのですが、どうしてかぼくは余りこうしたことに関しては書いてはいません。
コーカサスの山と人<上>  
コーカサスの山と人<下>          

登山と「神話」

 登山と「神話」は山と渓谷社の季刊誌『岩と雪』に、38号から43号(1974年10月〜1975年6月)の6回にわたって連載したもので、当時けっこう話題となったものです。
『なんで山登るねん』よりずっと良い、という岳人もたくさんいました。ぼくとしては、『なんで山登るねん』の基盤となっている理屈を述べたつもりだったのですが・・・。

◎登山と「神話」(全6回)
その1 スポーツ神話について
その2 宗教登山の位置づけについて
その3 『槍ヶ岳からの黎明』について
その4 「山での死」について
その5 『ホモ・ルーデンス』について
その6「シェルパレス登山について」は割愛しました。

西パキスタンの旅について

 1969年、ディラン峰遠征の4年後、学園紛争たけなわの日本をあとに、戒厳令下のパキスタンをジープで旅した記録です。
 このときの話は、『なんで山登るねん』の随所に出てきます。
 『西パキスタンの旅』は、月刊誌〈山と渓谷〉に1970年5月号より2年近く連載されました。

(この時、山渓本誌の編集部でこの連載を担当したのが、若き節田重節さんでした。連載が終わって間もなく彼が編集長となって、私に新連載を依頼し、ここに『なんで山登るねん』が生まれた訳です。)
 当時は、ネパールと違ってパキスタンの情報は大変少なかったので、この連載を海外遠征の勉強会のテキストに使った山のグループもあったと聞いております。

 この時の活動の一部、スワット・ヒマラヤのマナリ峠の地理的同定踏査の記録映画「ハラハリ」は、本サイトにアップされています。記録映画「ハラハリ」(on YouTube)

◎西パキスタンの旅(全14回)
第1回 カラコルム辺地教育調査隊の出発
第2回  シンド砂漠を走る--その1--
第3回  シンド砂漠を走る--その2--
第4回  ギルギットへの突入--その1--
第5回  ギルギットへの突入--その2--
第6回  ギルギットへの突入--その3--
第7回  ギルギットへの突入--その4--
第8回  バブサル峠への潜行--その1--
第9回  バブサル峠への潜行--その2--
第10回  幻の峠を求めて--プロローグ--
第11回  幻の峠を求めて--ガブラル谷--
第12回  幻の峠を求めて--ハラハリ谷--
第13回  幻の峠を求めて--ハラハリ氷河とマナリ・アン--
最終回  幻の峠を求めて(最終回)--エピローグ--

ごあいさつ

 こんにちは。
河出文庫表面.jpg 高田直樹作品集には、『なんで山登るねん』が出る前に書いたものの中からアップすることにしました。
 まず最初の候補としては、『なんで山登るねん』直前の〈山渓〉連載『西パキスタンの旅』、そして『なんで山登るねん』よりもいいとよく言われた〈岩と雪〉連載の『登山と神話』など。
 さらに、少々珍しいものがあるのを思い出しました。
 先進的な探検誌として話題を呼んだ〈現代の探検〉創刊号に書いた、『ラホールの蒼い月』(1970年)です。 この作品のいきさつなどは、『なんで山登るねん』の続と続々等に何回か出てくるので、内容を読みたがっておられる読者の方が多いのです。
 こうしたものを、順次載せてゆきたいと思っています。

ようこそ高田直樹ドットコムへ

 3年ほど前、香港の無料サーバーの閉鎖のため、以後閉じ放しであった高田直樹ドットコムをブログサイトとして、リニューアルして再開することにしました。ご指導いただきご協力頂く中村亘氏に感謝します。

その2 宗教登山の位置づけについて

chapTwo-1.jpg
登山と「神話」その二

宗教登山の位置づけについて


 先号では、「スポーツ」に関係する「神話」をとりあげて述べました。これについて、ぼくにとっては予想以上の反応があり、いろいろの人から、いろいろのコメントを頂きました。
 ぼくとしては、くさされても、別にしょげ返るわけではありませんが、逆にほめられると、どうも具合が悪い。もちろん、ほめられ、持ちあげられて、気分が悪いわけではありません。でも、たとえば、「次に期待する」などと、偉い人から云われると、どうもペン先がこわばってしまいそうです。
 ぼくは「論文」を書いているつもりはないし、一つの「読物」と受けとってほしいのです。ただ「それはおかしい」というところがあれば、反論してもらうことが有難いわけで、たとえ、こてんぱんにやっつけられてもぼくとしては、大いに満足です。

 さて、「神話」についてですが、ぼくがいう「神話」は、いわゆる「現代の神話」といわれるやつで、「政治神話」あるいは「社会的神話」という部類のものです。ヤマトタケルノミコトと直接的には関係ありません。
 しかし、全く関係がないわけじゃない。むしろ大いにあるというべきかも知れません。
 どうしてかというと、たとえば、『古事記』『日本書記』は、日本の歴史であるか否か、という問題をとりあげて、考えてみましょう。
 これは、そのもっと後の、楠木正成にしても、家康にしてもおなじことです。要するに、何が歴史で、何が歴史でないかの判断点は、「歴史が、少数の人の歴史であっては、それは歴史ではない」ということです。
「万里の長城」は、明らかに、古代中国の人民の力によって造られたものです。しかし、学校では「秦の始皇帝」が造ったと教える。そのアイデアを考えついたのさえ、始皇帝ではなく、おそらく歴史に現われない誰かだったに違いない。つまり、書かれた歴史は、みんな大ウソということになります。それは、人民不在の歴史であるからです。
 次に、「すべての歴史は、現在のことだ」といえます。これは、イタリーの哲学者のクローチェがいっていることです。
 たとえば、いまいった「始皇帝」は、儒者を生きうめにして、儒教を説いた書物をもやした、とんでもない暴君だとされていました。いわゆる〈焚書坑儒〉です。ところが、中国では、最近の儒教批判が起ると、「奴隷制社会」から「封建制社会」への移行を促進した、名君ということになりました。一方、孟子などは「奴隷道徳」を説いた、けしからん奴だということになり、「孟老二」つまり「孟家の次男坊」という蔑称でよばれることになってしまいました。
 また、敗戦まで日本で使っていた小学校の歴史教科書は、占領軍の命令で、まっ黒に墨をぬらされた。これをけしからんと怒っている人もいるようです。この教科書には、神代に「人民が騒いだからこれを平らげたもうた」と書いてある。墨をぬって当然で、けしからんと思う方がどうかしています。
 大体、「騒いだら平らげる」という発想がけしからんわけで、騒ぐにはそれなりの理由があると考えるべきです。こういうことをいうとすぐ「かたよってる」という人がいる。事実、先号のぼくの文章をよんで、共産党、民青の思想ときめつけた人がいます。本居宣長は、マルキストでも、唯物論者でもないけれども、百姓が一揆を起す、つまり騒ぐには、それなりのよくよくの理由があるはずだ、といっています。こんなことはあったりまえの話ではないですか。
 話をもとにもどして、ともかく、歴史はたえず書き直されている。それは歴史が、クローチェがいうごとく、現在であるからなのです。
 ところが、古文書を並べてそれを歴史だと考える人がいる。材料を並べて、それをつないだら歴史だと考えるらしい。そういうバカみたいな歴史家や学者もいます。そんな人にとっては、歴史は不変なのでしょうが、これは全くの間違いというべきでしょう。
 やたらと長い前書きになりそうです。はしょって締めくくります。
 歴史つまり過去が現在に生かされると、よくいわれます。これはしかし、現在が過去によって否定されるということです。過去にやったようなことを、もう一ぺんやろうとする。ところが「すべての歴史は現在だ」というのは、まさに逆なのであって、過去のために現在が拘束されるのではなく、現在をつくるために、あるいは未来をつくるために、過去が追放されるということです。
 さて、歴史において本質的なものは何なのでしょうか。たとえば、「ヤマトタケルノミコト」が実在したかどうか、それは本質的な問題ではない。現在にかかわる歴史の本質というのは、過去へ現代を引きつけるために歴史が学ばれるのではなく、現在が未来に向かうために役立つような歴史でなければなりません。
 過去に動かすべからざる過去というものがあるのではなく、現在のぼくたちの必要によって、過去の〈歴史現象〉の中に、本質的なものとそうでないものとを区別しないといけない。そうすることによって始めて、本質的なものをとらえうる、とぼくは考えます。
 こういう観点で、登山の歴史を見たら、どういうことになるでしょうか。これまでの登山の歴史といわれてきたものは、全く疑わしい、ということになる。そして、全然別の登山史が書かれることになるでしょう。
 ぼくには、そんなものを書くだけの能力はとてもありませんので、ここでは、適当にピックアップなどしながら、進みたいと思います。一というようなわけで、今回は、「登山史の神話」ということになります。

 

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その1 スポーツ神話について

スポーツ神話タイトル
登山と「神話」その1 スポーツ神話について

スポーツ登山について
 先頃、『ノストラダムスの大予言』という本が、話題になったことがありました。何人かの若者から、この本についてのコメントを求められ、しぶしぶ読んでみたわけです。
 あんまりバカバカしい内容なので、途中でいやになりました。あれを感心して読んだ人がいるとしたら、頭の程度が知れるかも知れません。というよりか、あんなもののインチキささえ、正確に認識できない国民を作りだした、教育の責任が問われるべきです。
 最近では、「ユリ・ゲラー」に始まって、「念力少年」が巷の噂を呼んでいます。ぼくにとって興味があるのは、本当にスプーンは曲がるのか、インチキかそうでないか、そういうことではないのです。そんなことは考えるまでもない。「念力少年」がブラウン管の話題となり、人々の関心が、そんなどうでもよいことに集中することによって、喜ぶ奴は誰なのか。
 無意識的にしろ、そういう非科学的事象をデッチあげ、日常化しようと策しているのは、どういう人達なのか、そういうことに最も興味をもちます。照れ臭さをおし殺して、大上段にふりかぶっていえば、社会点視点とでもいえるでしょうか。
 さて、ぼくは考えるのですが、もともと、「山登り」というものは、実体としてはない。一つの抽象概念です。あるのは、山へ登る人間、生身の人間がいるだけです。同様に、「クライマー」などはなくて、クライミングする人間がいるだけです。「クライミングする人間」の最大公約数が「クライマー」のイメージとなって当り前のはずです。でも、どうもそうではない。クライマーのイメージは、適当に捨象・抽象され、美化された形で、クライムしようとする人間に押しつけられ、さらには、人々がそのイメージに向かって、かり立てられることになる。そうなっている状況を、ぼくは、「クライマー神話」があると呼ぶわけです。
 いやに傍観者的に、あるいは評論家的に述べていますが、ぼく自身、決してこういう「神話」から自由ではなく、それにしばられているようです。
 たとえば、「アルピニズムとは……」などと始めると、もうどうしようもありません。それほど、言葉の呪縛は大きいともいえるでしょう。これはまさしく「アルピニズム」神話です。このやりきれない、袋小路から脱出するため、ぼくは、去年の『山と渓谷』四月号に、「神話へのクライムから、内なる呼び声によるクライムヘ」の小文を書いたわけです。
 ところが、よく考えてみると、「内なる呼び声」そのものまでも、「神話」に犯されているようなのです。そうであれば、残る方法は、「神話」自体をじっくり見すえ、その偽瞞性をあばくしかない、と思うようになりました。やり方は、もろもろの「神話」を社会的視点でとらえることです。
 今回は、まず大前提として、「スポーツ神話」をとりあげてみたいと思います。

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西パキスタンの旅 最終話「幻の峠を求めてーエピローグー」

サーブ、結婚しろ
幻の峠5 極度にやせた、ハラハリ氷河左岸のサイドモレーンのナイフリッジをたどる。
 リッジの右側はモレーン壁の原型をとどめ、その底には小さたアプレーション・バレー。
 左側はスッパリと切れ落ち、その侵食壁の下には、大小の岩石におおわれたハラハリ氷河が横たわる。
 そして、その約1000mの氷河幅の向こうには、壁に小さな懸垂氷河を引掛けた岩峰が連なっている。
 5000m峰だ。登るとすればかなり困難な登攣となるだろう。
 アルプス、コーカサスの峰々はその壁という壁が登りつくされているというのに、ここでは、その頂上に立った者さえいないのだ。
 私たちが、このぜいたくな景色に、悦に入っていると、30kg近い荷を持ったフェルドースが、振り向きざま、
「サーブ、この道は俺たちしか行けぬ」と口をとがらせて話しかけてくる。ウルドーをいうときだけそうするのが、彼のクセらしい。
「どうだサーブ、サーブはしあわせか」確かに連中のバランスは素晴らしい。とてもガブラル村のポーターの比ではない。
 しかし、この押しの強さはどうだ。彼らの個性の強さもまた、カブラルの連中の比ではない。
 フェルドース、今度は中村の方を向くと、まったくヤブから棒に「サーブ、ハラハリ村で結婚しろ」
 「中村があっけにとられて、ポカンとしていると、フェルドースは右手を差し出し、人差指に中指をからませたサインをした。そしてさらに、それに左手の人差指を当てがった。
 中村は少々怒り、赤くなり「トゥム、アッチャーナヒーン」(君はよくない)」と叫んだ。
 私たちは、「そうせい、そうせい。なかなかええ娘がおったやんけ」などとはやした。
 彼は、自称、パキスタン娘にモテるのだ。たとえば、インダスルートへの途中、カローラという部落に泊まったときなど、女の子が後ろについて回るので、小便するのに困ったそうだ。もっとも、そういう光景を私たちは見てはいないのだが‥…・。

 七月二十三日、私たちはハラハリ村のポーターたちと一緒に、ハラハリ氷河を登り、峠を目ざしていた。
 同行のポーター六人。
 アブドラーマン(六〇)、ビリアムカーン(三〇)、ムシュラップカーン(二八)、フェルドース(二五)、サドバル(二五)、サダップ(二五)。
 みんな屈強の男どもだ。ひとクセもふたクセもありげなつらがまえである。
 私たちは、ビリアムカーンにさっそく、〈悪役〉というあだ名をつけた。彼は、まさに西部劇の悪役の顔をしている。
 例外はフェルドース。彼は金持ちのぼんぼんタイプのやさ男だ。
 ビリアムカーンは、ハラハリ村の実力者の一人だ。ちなみに、彼の財産はヒツジ二〇〇頭、ウシ八頭、ウマ二頭。
 もう一人の実力者は、シェール(六〇)であって、彼の所有するヒツジは三〇〇頭。
 こういうことは、もちろんのちほどの定着調査で分ったのだが、たとえば、フェルドースとムシュラップカーンは、このシュール派に属する。
 シュールの娘は、フエルドースの妻である。シェールの妻は、ムシュラップカーンの姉マルジャン(四〇)だ。つまり、この二人は、シュールの義理の息子であり弟なのだ。
一方、ビリアムカーン派に属するのは、サダップとサドバル。
 サダップの母親は、ビリアムカーンの父親アダル・ハーレツク(七〇)の妹である。つまり二人はいとこ同志だ。サドバルは、ビリアムカーンの使用人である。
 このどちらの派にも属さないのが、アブドラーマンである。

誇り高い山人

幻の峠5スナップ 四〇才の妻に、三人の子供。一番上の子供はまだ一〇才だ。一番下は二才。この子供を抱いた彼の目からは、あの鋭さが消える。
 若いころ、多くの氷河の旅を行なったシカリー(猟師)仲間は、病気や氷の割れ目に落ちたりして、もう一人も生きてはいない。だから、自分だけが、この峠越えの道を知っているのだ、と彼はいった。
 彼は、誇り高い山人なのだろう。村では、他の村人とはほとんど離れていて、ともに談笑することもなかった。
 この峠越えで、彼は、私たちの荷物を運ぶことを拒んだ。持たせようとするビリアムカーンに、彼は憤然としていった。
「ワシはジャマダール(リーダー)だ。お前たちのアタ(小麦粉・食糧)はワシが持つ。それ以外は何も持たない」
 このときのことを根に持っていたのか、ビリアムカーンは、サイドモレーン上の休憩のときに、こういった。
「こんな峠越えなんぞ、簡単なもんだ。俺一人でも行ける」
「なんじゃと」やはり、彼は、かん高い声を上げて、ひらきなおった。「ワシが先導しなくて氷の割れ目を進めるというのか。よし、それならお前先頭に立て!ビリアムカーン」
 ビリアムカーンは、シュンとして黙ってしまった。
 間もなく、サイドモレーンはつきた。ポーターはここで泊まりだといった。4050m。
 なるほど、このあたりが厳密な意味での植物限界なのだ。アブレーション・バレーの向こうの岩壁には、小さな灌木がある。ポーターたちの貴重な燃料だ。
 その木を取りに、岩壁を攣じるサダップ。たくみなクライムを、サーブたちは感心して眺めている。
 サドバルがいい声で歌をうたう。〈シーリンジャーナー〉、彼の十八番だ。シーリンという美少女を歌ったものだ。その一節。〈川がある。そのほとりにシーリンが立っている。少年がやって来た。彼はいう。手をお出し。手をとって渡してあげよう〉
 基線測量をようやく終えると、すぐに夜がきた。
 午前四時、「サーブ、サーブ」ポーターたちがテントをたたく。着のみ着のままで一夜を明かした彼らは、三時から起き出して、寒さに歯を鳴らしていたという。
 早くしないと雪がゆるんで危険だ、急げ、とさんざんせかされたけれど、羽毛服を着込んだサーブたちは、紅茶を飲んで、いやにゆっくりとテントをたたんでいる。明け始めた氷河の白に、モレーンに立つポーターたちのシルエットが美しい。
 六時出発。
 すぐ氷河へ。ものすごく早いピッチ。私たちは必死で後を追う。トップに立つアブドラーマンは、手に細い木のツエ、足にヒツジの革を巻きつけただけのいでたちで、凍雪を踏んで行く。
 突然、彼が雪にうづくまった……と見えたのは誤りで、ヒドン・クレバスに落ち込んだのだ。
 やがて、朝日が雪を赤く染め始めた。
 ふと気がつくと、もう氷の壁が目前に迫っている。でも、峠はどこにあるのだろう。

マナリ・アンに立つ

 高度4200m地点で休憩。パドルの水を飲む。出発のとき、ポーターたちは、手を天に向けて、アラーに祈った。ごく自然に私たちもこれにならった。
 急に、右手のはるか上に、岩の切れ目が現われ、峠が見えた。ハラハリ氷河はそのどんづまりで、直角に右に曲がると、急激に峠にのし上げていた。
 アブドラーマンは、セラック帯の立ち並ぶ氷塔めがけて、一文字に進んだ。
 それは、私たちのルートファインディングの意表をついていた。だが驚いたことに、彼の前には、常にルートが展開した。
 クレバスにはスノーブリッジがあり、スノーウォールにはレッジがあった。
 クモの巣のように走るクレバスをぬって、それは、まさに動物的なルートファインディングとしかいいようがなかった(しかし、この点について疑問を感じた関田が、のちほど問いただした結果、彼が数週間前にこのルートを通ったことが判明した)。
 そして、ときどき、彼は手オノを振って、カッティングを行なった。
 手オノのカッティング、とび散る氷片、切り出された足場にゆっくりと置かれるヒツジの革を巻きつけた足‥…・。私は、何か、失われたショウを見る気持で眺めていた。
 高度にして200mほどのセラック帯を抜けると、あとは坦々とした雪の登りが続いていた。
 ホッとした私たちは、ここで初めて、ゆったりとくつろぎ、ハラハリ氷河右岸の峰々を眺めた。
 そのとき、「サーブ」とアブドラーマンが語りかけた。「ワシは、サーブたちに金でやとわれて案内したんじゃない」彼の声はいつものようにキンキンとはひびかず、低かった。
「あんた方はワシたちの友達になれると思ったんだ。それにサーブたちは、ウルドーが話せる。何年か前にも、よその国のサーブに頼まれて、一日五〇ルピー出すといわれたが、ワシは断った。こんな危ねえ所へ、気心の知れねえもんと来るなんて、いくら金を積まれてもゴメンだね」
 私たちは、雪の白に区切られた蒼穹の底に向かってあえぎ登った。その蒼色の円弧は、いつとはなしに広がり、やがて、ポチリと突起が現われ、次々と向こうの山の頂がせり上がってきた。ラースプールの山々だった。
 私たちは、知られざる峠、マナリ・アンに立って、これらの山々を見ていた。10時半だった。
 この景色を眺めるのは、私たちが最初だな、とふと思ったけれど、特に感激したわけではない。
 マナリ・アンは、西パキスタンの旅のエピローグであった。そして、ハラハリ村の連中との叙事詩的な交わりの中の、一つのエピソードにすぎなかった。(おわり)

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