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  • Archives: July 2007

アフガン難民支援レポート(7)

遥か彼方のヒンズークッシュの山並みを望みながら、ぼく達のランドクルーザーは、赤茶けた山肌の、急峻な斜面の大きく曲がりくねった道を、先導するトラックを追って、結構な猛スピードで走りくだってゆきます。
燃料にするのかあるいは家畜のえさか、小潅木を山のように背負った女性が歩いています。
「タリバーンは、女性の教育を認めなかったんだろ。コーランにはそう書いてあるの?」
「No!。回教は、たいへんフレキシブルな宗教なんです。」と、イムランは強く否定しました。
「ぼくは、男よりも女性の教育のほうがより重要だと思うよ。だって、基本的な性格形成は幼児期にされる。つまりほとんどすべてが母親の膝の上(On a laptopof the mather)で決定することになるわけでしょう」
「全く同感です」
等と話しているうちに、車は大きく開けた谷に出ました。

DSC00015.jpgさらにしばらく走ると、谷の左手の山側の広い扇状平原に、小さな建物が点点と広がって点在しているのが望めました。
それが、シャルマンキャンプで、もっと新しくかつ国境に近い難民キャンプなのだそうです。
看板にSERMAN Ger's Campと書いてありました。ドイツのNGOがドナーとなっているようです。
数百をこえる、細長い黒色の石片が乱立する墓地の傍らを走り抜けると、金網で囲った区画が現れ、それがシャルマンキャンプの入り口でした。銃を持った警官が2人立っています。

DSC00012.jpg5人の管理官に迎えられ、イムランは、いつものように、They are a delegationfrom Japan. Mr.Takada is a owner of CreateJapan. とわれわれを紹介してゆきます。
いろいろな大きさのテントが、適当に建てたという感じで立っています。
大きな家型テントに入るとそこが事務所でした。
がらんとしたテントは、下には養生シートのようなものが敷いてありました。奥の方の右手に大きなデスクがあり、左手に木の肘掛け椅子が10脚ばかり壁に沿ってL字型に置いてありました。
このキャンプで働いているのは、すべてパキスタン人で、外国人はいません。倉庫。学校。診療所(BASIC HEALTH CENTER)。パン焼き場。石油貯蔵槽。貯水槽。などなどがあるそうです。
草木絶えたこの荒野では、当然水はなく、7台の給水車が遠くの村の井戸で汲んだ水を運んでくる。食料や燃料その他は、すべてペシャワールからトラックで輸送しているのだそうです。
普通なら、ここでお茶が出るところなのでしょうが、いまはラマザーン。すぐに学校を見に行くことにしました。

DSC00017.jpgでも彼らが最初に案内したのは、倉庫テントでした。
中で充分バスケットボールのゲームが出来るくらいの大きさのテントには、物資が並べてあります。
テントは、3棟が壁を接して並んでおり、最初のテントには、ストーブ、煙突などの暖防具。オイル用のポリタンク。ポリバケツなどもありました。
食料テントには、ダル(豆)、アタ(小麦粉)、ギー(食用油)などが、壁際に沿って、一応整理された形で積んであります。

PB140226.jpg最後のテントは、衣類などのテント。シートや、マット。靴や布団に毛布。古着などもありました。すべては、壁際に細々と積んであるという感じで、心配になったぼくは、サプライは充分なのかと尋ねてしまいました。問題はないとのことでした。





DSC00029.jpgテントの裏側には、大人子供を含めての長蛇の列が出来ています。石炭の配給を行っているのでした。小さな机に座った係官が、ノートに拇印を押させ、各自が持つ証明書のコードを書き写していました。
それは、昔ぼくが、遠征のキャラバンの終わりで、ポーターに賃金を支払っている情景と同じでした。列の割り込みのためにいさかいが起こる所までそっくりです。警官が飛んでいって制止していました。
この1万1千人の人々に、毎日毎日、35グラムのアタの配給を行うだけでも大変な作業と思えました。

PB140271.jpg次は、学校です。
学校は、午前中で終わったということで、生徒はいません。学校とはいってもそれは、20畳大のがらんどうのテントだけ。5人の女性の先生が現れ、ぼく達と挨拶を交わしました。






PB140274_1.jpg見渡す限り、砂利と砂の平原の中に、テントや泥でできた家が、不規則に点在し、ガールズスクールといっても、20畳大のテントが5張り立っているだけなのでした。中は、黒板がポールに立てかけられていますが、地面むき出してシートはありません。この中に50人ほどが座るのだそうです。




PB140280.jpg外には、シートで囲ったトイレとおぼしき物が2つ建っていました。










PB140281.jpg















PB140283.jpg冬がやってきたらどうなるのか。
少々肌寒さを覚えたのですが、すぐ隣に土塀で囲われた建物が建造中で、この学校は、後2週間で完成するそうです。
これも見に行くことにしました。昨日のアザヘールキャンプの学校よりは、しっかりしたもので、これなら冬の到来にも間にあうことでしょう。
遥か上方には、やはり数日で完成するというボーイズスクールが望めました。

続きはすぐに。
高田直樹

アフガン難民支援レポート(6)

14日。
約束通り、9時15分前に、イムラン運転の車が来ました。
ペシャワールの町の大通りの雑踏を抜けると、右手にカチャガリ難民キャンプが現れます。18年前の1984年、秀子を案内したのは、このキャンプでした。
あの時、道路左手にいくつも出来ていた、砲撃による巨大な窪みは、埋め立てられたのか跡形はありません。
このキャンプは、数万人もいた難民がほとんど帰郷したので、廃止になったそうで、街道沿いの家並みを残して、すべて取り壊され、まるで鋤で耕された田んぼのようになって、それが地平線まで広がっていました。

DSC00004.jpgしばらく走って、左折れするとそこに大きな北西辺境州アフガン難民局のビルがありました。














銃剣をつけた衛兵の立つ門をくぐり、車は玄関に向かいます。
大勢の人が出迎え、イムランは順番に抱擁の挨拶です。
進み出た儀典長に伴われて玄関を通ると、両側に立つ衛兵が、ターンと踵を踏み鳴らして敬礼したので、びっくりしました。階段を上り、廊下を通りながらも、イムランは駆け寄って挨拶する人々に答礼し大変です。
6年間ここに勤務していたんだよ、とイムランがいいました。
これは後で分かったことなのですが、なんと彼は、ここの前長官だったのです。
ぼくは見なかったのですが、岩橋によれば、長官室には歴代長官のリストがディスプレーされており、前長官が、ドクターイムラン、その前はあのグルザールだった。
(ムシャラフ−>)パルベイツ−>グルザール−>イムラン−>現長官という驚くべき凄いリンケージが、浮かび上がったことになる訳です。

PB140146.jpg長官室に入り、挨拶を交わし、恰幅のいい長官の説明を聞きました。
そばのイムランが、彼らは何度もブリーフィングをしているので、ほとんど了解済みだといいました。
ぼくは、昨日のアザヘールの難民キャンプ訪問の様子を話し、1969年の辺地教育調査隊の追憶を話しました。
イムランが、彼は実験室を作ったらどうかと考えているのだと紹介し、「ぼくはかつて化学の教師だったのです」というと、長官大いに頷き「それは全くいい考えだ」と同意を示しました。
先が長いのでと、イムランが辞去の意を告げ、約20分ほどで、ぼくたちは部屋を出ました。
DSC00006.jpg玄関では20人を超える人達の見送りを受けました。反対側には、着飾った5人の儀杖兵が一列に直立不動で立っており、岩橋がカメラを向けていました。
ここから、一人の制服警官が同乗しました。
北西辺境州に入るには、警官の同行が義務ずけられているのだそうです。
カイバル峠に向かって少し進むと、チェックポストがあり、ここでもう一人の警官が同行するようです。彼の乗るスペースはないので別の車がぼく達を先導することになりました。岩橋によれば、これは特別なことなのだそうです。

走り出してすぐ、ドクター・イムランは、「ここはもうトライバルエリアです。ここでは武器弾薬、麻薬など何でも手に入る。天国以外はすべて買えるのです」と言いました。
道は意外にすいていました。半年前は家財道具を積んでカブールに向かうトラックで渋滞状況だったんです、と岩橋が説明しました。
左手に大きな邸宅が現れ、小さな門から中にずらりと並ぶ高級外車が、一瞬見えました。麻薬御殿なのだそうです。
PB140205.jpgカブールに続く街道を右折れし、ジャムロードの集落を抜けて谷の道に入りました。九十九折れの道を登ります。そこここの山の上に望楼やお城(シャンガイフォート)が見え、それらはみんな昔、英国が作ったのだそうです。カイバル峠というポイントは特になく、この辺全体をそういうんだよと、イムランが説明しました。



PB140337_1.jpg10時40分、分水嶺の峠を越えると急に前が開け、遥か彼方に雪を頂いたヒンヅークッシュの山並みが、白い線のように左右に伸びていました。







続きはすぐに。
高田直樹

アフガン難民支援レポート(5)

この難民キャンプにきて、今から33年も前のあの「辺地教育調査隊」(「西パキスタンの旅」参照)の経験が、急に生々しく蘇ってきたのです。このキャンプの様子は、あの時訪れたシンド、パンジャブ、スワットなどの僻地の村とあまり変わらないのです。
大きな違いは、ありました。果樹園や大きな樹木が一切ないことでしょうか。でも裸足で家から飛び出してくる子供たちは、30数年前のパキスタン国内と何も変わらなかったのです。

DSC00027.jpg最初に案内された小学校は、言ってみれば大き目の家を学校にしたという感じです。くぐり戸みたいな門を抜けて中に入ると、中庭があり回りに小さな部屋があります。







DSC00011.jpgそれぞれの部屋が教室になっていて、30人ほどの少女が、清潔な淡い青色のシャルワルカミーズを着て、ござの上にぎっちりと座っています。
ぼくが、中をのぞくと一斉に立ち上がり直立不動の姿勢をとりました。
6歳の1年から6年生まで〆て10クラスあるのだそうです。




DSC00002.jpg一年生は、ウルドー語を勉強中で、まだ完全に聞き取れません。そばの教育担当コミッショナーが、パシュトーン語で通訳しますと言うので、ぼくは少しだけ挨拶しました。
こんにちは。皆さんとあえてうれしいです。がんぱって勉強してください。
と、これだけのウルドー語の挨拶なのですが、翻訳のパシュトーン語は、もっと長かったようで、なにやら付け加えて話されたようでした。
可愛い一年生の少女達は、真剣な顔つきで聞いていました。

PB130071.jpg6年生になると、英語を学び始めます。英語で話してやってくださいということなので、また少し話しました。
あまり聞き取れないようなので、ウルドー語に変えるとみんなニコニコしました。
でも、How do you think, English difficult?ときくと、みんな一斉に頷きました。



DSC00014.jpg学年二クラスというのもあるので、足らない分は、戸外のフライシートを張った下にシートを敷き、教室としています。
これは、難民キャンプの学校のイメージです。






DSC00020.jpg屋内のクラスは、辺地教育調査隊の時のイメージで、暗い部屋の中で、手に小さな黒板を持って石墨で字を書くのです。
大きな違いは、あの時、このようなガールスクールは存在しなかった。それに、こんなにぎっしり詰まってはいませんでした。




DSC00034.jpgこのあと、ボーイズスクールを見ました。基本的にはガールズスクールと変わりませんが、どうも身なりが、少女達のほうが、綺麗なような気がしました。







PB130052.jpgこの二つの学校を見ているときに、ドクターイムランが、彼らに必要なものは、実験室じゃないかなと、言ったのです。来る途中、ぼくはこんなことを話していました。
すべての物は、すでに各国のNGOによって支給されているような気がする。それ以外のもの、必要なもの、何か盲点になっているものがないものか。
ラボラトリー!。それはいい。ぼくは、実はかつて、化学の教師だったんだ。

PB130054.jpg鉛筆、紙、教科書などは、絶対に必要なものではある。でもそれが既に与えられる態勢が出来上がっているし、みんな使えばなくなるものでしょう。
君が言っていたように、残るもの長い効果のあるものがいい。イムランはそういったのです。
でも、付け加えて、小学校には、実験室と言う支出の枠はないそうなのだ。
高校ではあるのだが、これはパキスタン政府が支出することになっている。
難民支援は、各国のあるいはNGO団体のテリトリーが決まっているそうで、小学校はドイツ。中学校は、どことか。そして、高校は、パキスタン政府の管轄なのだそうです。

PB130115.jpgこの実験室のアイデアは大いに気に入りました。なにしろイメージが湧くのです。
薬学博士のイムランも同じなのでしょう。彼にに聞いてみると、一つの実験室は2000$位で出来るといいます。それなら、いくつも出来るではないか。
ぼくは、大乗り気になって、このアイデアを推し進めてくれるように言ったのです。

2時間足らずで視察は終わり、ぼくたちはパールコンチネンタルホテルでイムランと別れました。
彼は、明朝8:45にこのホテルに迎えに来ます。9:00から北西辺境州難民局に赴き、難民局長官とのブリーフィングを行わなければなりません。
その後、カブール方向に向かい、カイバル峠を越えて進みます。
国境近くの最も新しい難民キャンプを見に行く予定になっているそうです。その国境への最フロントの難民キャンプを見て、もしかしたらぼくの考えは、実験室から別のアイディアに変わるかもしれない。
そんな気もしています。

高田直樹

アフガン難民支援レポート(4)

3日間のイスラマバードが過ぎ、今日13日はペシャワールに向かう日です。
難民局からの車を待っていると、9時10分、白色のトヨタラントクルーザーが現れました。
ドクター・イムランが運転しています。
走り出してすぐ、後ろの席の秀子が、PB130004_1.jpg「あなたのような方に運転させて恐縮ですと言うのは、どういえばいいの、そう言って」というので、
「恐縮ですという心はどうなんやね」とぼく。
「ありがとうと感謝しているということかな」と、秀子。
岩橋が、「I am much appreciateですかね」
 イムランに聞こえる状況であまりぐだぐだ言っているのも問題だという気がしたので、
「Dr.Imran, She is very much thankful to your drive as such high status person as you.」

イムランは、アハハと笑い、グルザールと自分との関係は彼の部下というより、同族の友人みたいなものなんです。
彼の友人のパルベーツの依頼をきいて、彼がぼくに頼んだ。パルベーツの友人は、ぼくの友だちで、われわれは友達同士なんです。
難民局には、ドライバー付きの2台の車が用意されていたんだが、ぼくは自分が運転するからと言って、この車にしたんです。

彼は、スワット出身なのだそうです。ぼくは、1969年の「西パキスタンの旅」、カラチからスワットへのランドクルーザのドライブの話を語ったのです。
彼は、薬学を学び博士号を取ったそうで、その後イタリアに留学しています。聞いてみたらGulzar氏はペシャワール出身。そうするとパルベーツと同郷ということになる。みんなパシュトーンということになります。
もっとも、アフガン難民の仕事は、パシュトーン語が操れなければ、どうしようもないと言えるのでしょう。

イスラマからカイバル峠に続く、あの有名な歴史街道ペシャワール道路を北上を続けました。
ペシャワールに近づいた頃、ドクター・イムランは、突然、停車している2台の車の前に、停車しました。
出迎えの人たちでした。そこは、アザケール難民キャンプの入り口近くでした。出迎えたのは、このキャンプの教育担当のコミッショナーとそのスタッフたちです。5人で一人美人女性がいました。彼女は、5つある学校を巡回するまあ教育委員会主事と言うところでしょうか。

銃で武装した門衛をすぎて、キャンプに入ります。
キャンプは、街道沿いに延々と続いているようです。水は、道と反対側の川水を利用していると言います。
難民キャンプというと、なんとはなしにテントを連想してしまうのですが、どこにもテントなどはありません。泥や、泥の乾しレンガで作った家が延々と立ち並んでいます。このキャンプが出
来たのは1992年のことで、もう十年も経っているのです。
キャンプというより、村というほうがぴったりする感じなのです。でも、ビレッジではなくあくまでキャンプなのだそうです。

PB140154.jpg両側の、泥の家の家並みを街道沿いの方向に南下してゆくと、商店街が現れます。
岩橋が、こりゃ全くカブールですよ。ここの写真をとって、カブールの町外れと言ったら誰も疑いませんよ。
考えてみれば、アフガン人がやってきて、村を作ったらアフガンの村と同じになってもなんの不思議もないのです。
ぼくといえば、1969年の「西パキスタンの旅」、ジープを使ってのあの「辺地教育調査隊」の経験を思い起こしていました。

高田直樹

アフガン難民支援レポート(3)

われわれが、行くことになった難民キャンプは、ペシャワールよりイスラマバード寄り30分のところにある、アザヘールキャンプと呼ばれる難民キャンプです。
彼らの説明では、他にももっと小さいのや新しいのがあるそうですが、ぼくがパルベイツとの相談の結果、援助の対象は教育関係に絞りたいということを強調しているので、そのためには大きくて少し古いものでないと教育関係への欲求がないようなのです。

明日9時発で、難民局が用意してくれる車でペシャワールに向かい、難民キャンプを見た後、そこにやってきたペシャワール地域のコミッショナーとのブリーフィングが行われる予定です。
ぼくは、すべては、見てから。お金は銀行振込に限る。8000$のお金は、今回渡すとは決めていない、と言明しますと、長官は「ノープロブレム。すべてはあなたの意のままに」と答えました。

このプロジェクトの発起人でありかつプロモーターの家内の秀子は、18年前の初訪問のパキスタンで、カイバル峠寄りのペシャワール難民キャンプやムジャヒディーンの野戦病院テントなどを訪れたことを話しました。
約一時間ほどのミーティングを終えて、ホテルへ戻るとボイスメッセージが入っており、カイバル峠行きのパーミッション用に、4人のパスポート番号が必要、ファックスして欲しいとの長官のメッセージが来ていました。そのキャンプへ案内することを考えたのでしょう。

DSC00033.jpgアフガンカーペット・イスラマバード支店へ表敬訪問。










DSC00099.jpgそれからナジールサビールの事務所へ。ここで、ラホールへのエアティケットとホテルの手配を、事務官のスルタンに依頼。
今日の予定は、終わりました。







ホンダのアコードに乗って、ずっとわれわれのドライバーを勤めてくれている、シャフィカーンの息子のアマンは、この夏ぼくがここを訪れたときは、アメリカ旅行中でした。
われわれが、帰った後にまたアメリカ・シカゴに行き、ロンドンに回るのだそうです。来年には来日し、我が家に来るのを楽しみにしているそうです。

岩橋の推薦のイタリアンレストランでの食事は、全く信じられないものでした。
キャンドルのテーブルや店の内装、雰囲気は、まるでヨーロッパにいるようです。パキスタン製のマリービールは、充分においしく、赤ワインはフランスワインです。これがまた美味しかった。値段は1250ルピー、2500円です。
ぼくが鶏、土田がピザ、秀子がスパゲッティ、アマンが肉などをメインに注文して、シェアしながら味わいましたが、かっこつけの日本のレストランなどと違って、極めて美味といえました。

お酒を楽しんだのはぼくとアマンで、接待主の彼は、酒の飲んだのは親父には絶対内緒にしてくれと真顔で言っていました。そんなことが父親シャフィ・カーンにばれでもしたら、昨日約束したというアコードからパジェロへの乗り換えに、追い金を出してやるという話が吹っ飛んでしまいます。
ところでカシミール出身の彼の情報によれば、カシミールのスキー場はすごくいいのだそうです。非常に安く100$で、一ヶ月過ごせるそうです。ただ、アプローチはインド側からに限られます。
近いうちに、カシミールスキー行を考えてもいいなと思いました。

もう一つ、付け加えます。
アマンのために持参したデルのラップトップは好評でした。
日本語システムを英語に置き換えるために、ソフトを買いに出かけたのですが、全くたまげてしまいました。
すべてのソフトCDが、40ルピーなのです。80円です。Windows2000やOffice2002、PhotoShopなど買いあさりぼくのとアマンのと〆て16枚で、1280円。これを日本で買うといくらになるか、岩橋に計算させたらなんと30万円くらいになるようです。

次回は、実際に現場に行ったことを報告することになるでしょう。

アフガン難民支援レポート(2)

今日は、アフガン難民局長官のサイード・アシフ・カーンの部屋で、いろいろの説明をするという昨日の約束通り、朝の10時に2台の迎えの車が現れました。
ぼくと、家内と、土田君は、バイクでこちらに向かっているという岩橋を待ち、すぐに出発しました。PB120105_1_1.jpgここでは、当方4人に相手方6人がミーティングを行いました。
でも、しゃべるのはほとんど、サイードで、ドクターイムランが時々口をはさむ程度でした。







一行を紹介します。
DSC00142.jpg 岩橋というのは、ぼくが教師を辞める直前の教え子で、コンピュータの弟子、大学にも行かず、パチプロの生活を続けていたのですが、昨年ぼくに拉致されイスラマバードで、英語とウルドー語の勉強をしています。
土田は、桂高校山岳部のリーダーでした。UNIXプログラマーで、ここ5年ほど香港で、香港新空港のベルトコンベア−システムのソフト構築にかかわっていたのですが、昨年帰国し今はぼくの仕事を手伝ってくれています。
家内の秀子は、この仕事の言いだしべえです。ぼくが、イタリアに滞在中メールが来て、「アフガン難民のために何かをしたいのだが、どう思いますか?」
それはいいことだ、ぜひやってくださいと答えを受けた彼女は、早速支援の呼びかけを行ったわけです。

サイード長官は、地図や統計のグラフなどを多用して、難民の推移変遷を分かりやすく説明してくれました。戦乱と政治情勢の変化によって、帰る難民があり、同時にやってくる難民があるということが、1980年代より繰り返されています。ただ、カルザイ政権より後は、明らかにその数が半減し150万人となっていました。

難民キャンプは、数万単位の大きなものがいくつもあり、小さなものは、各地に点在。イスラマバード郊外にもあります。その数は、数百に及びます。
アフガニスタンとの国境ラインに沿っての、難民キャンプが列状に存在し、これらは逃れてきた難民たちを、おもにNGOがキャンプを作って受け入れたために生まれたのだそうです。
9.11後の各国の援助では、USが最高で、ドイツがそれに次ぎ、日本は4番手位だったのは、少し意外でした。

アフガン難民支援レポート(1)

前略
またもやパキスタンに来ております。

当地は、今一番いい気候です。
暑くなく、寒くなくいい気分なのですが、ラマザーンなのが少々問題なのかもしれません。
DSC00104.jpgとはいえ、われわれ異教徒にとっては、何の関係もないのですが、みんなが空腹を我慢している前で、食べたり飲んだりするのは、やはり少々気になります。
夕方5時過ぎの断食開けの時刻が近づくにつれ、道路は家路を急ぐ車にあふれ、渋滞し、いらいらしたドライバーが怒鳴りあうという、普通のパキスタンにはないちょっと日本に似た情景が見られるようになります。

3日間のカラチ・シェラトン滞在の後、イスラマバードに飛び、マリオットホテルに入りました。
DSC00007.jpgさすが、カラチの十数年来の旧友パルベイツ・フセインのアレンジは、大統領パルベイツ・ムシャラフの親友というだけあって、極めて強力なものです。
イスラマバードで最初に会ったのは、Mr.GULZARで、難民問題に16年かかわっているという人です。
すべてを彼に聞きなさいと、パルベイツが言っていた人です。
朝10時前に起きると、午前中に来てくださいというメーセージが入っていたので、シャフィカーンの車を呼ぼうとしていたら、GULZARの秘書とドライバーが、迎えに現れました。

番兵の立つ警戒厳重な区画の中にあるビルの入り口には、
Kashmir Affairs & Northern Areas and States and Frontier Regions
Division という看板がかかっています。
PB110081.jpgグルザール氏は、白髪で口ひげを蓄えた、なかなか素敵な紳士でした。難民の歴史をゆっくりした口調で、説明してくれました。こちらのことは、パルベイツから聞いて、よく知っているというので、特に詳しく説明はしませんでした。





この部屋に、2人のオフィサーが呼ばれ、紹介されました。
PB110082.jpg名刺:
Syed Asif Shah Chief Commissioner
Gavernment of Pakistan Kashmir Affiers, Northern Areas & States &
Frontier Regions Devision Chief Commissionerate of Afghan Refgees

Dr. Imran Khan Director
GOVERNMENT OF PAKISTAN
Chief Commissionerate for Afghan Refugees.

Mr.Syed は、Chief Commissoner ですから、アフガン難民局の長官と言うことになりましょうか。もう一方のDR.Imran、ドクターなのですが、何のドクターかは聞きませんでした。彼がぼくたちに同行してくれるのだそうです。

何枚かの記念写真を撮った後、部屋を辞去し、エレベータに向かって廊下を歩いているときに、岩橋が「あんな政府高官には、ちょっとしたNGOの代表でも絶対に会えませんよ」といい、さすがパルベーツの威力は、すごいネと感心したのでした。この国では人脈がないと何も進まない。昔から聞かされているようにThere is nothing impossible in this country. なのであります。
続きはすぐに。
高田直樹

アフガン難民支援レポート(2002年秋)

 妻の秀子は、銀婚式の記念旅行にと娘より送られたエアチケットでパキスタンを訪問した時より、アフガンラグやペルシャンカーペットに魅せられ、これがきっかけで絨毯の輸入ビジネスを始めました。
 アフガニスタン紛争に伴うパキスタンへの難民の報道に接し、何か役に立つことを始めたいと思い立ち、顧客に呼びかけ寄金を募りました。
 助力を要請されたぼくは、パキスタンの友人の中で、ムシャラフ大統領の親友のパルベイツ・フセインに協力を依頼します。
 この報告は、2002年の秋、ぼくたち夫婦と、ぼくの教え子の岩橋君と土田君の4名がパキスタンに赴き、パキスタン・アフガニスタン国境地帯で、いわゆるトライバルテリトリーといわれる普通の人間は近づけない地域の難民キャンプを訪問し、いかなる援助が最も有効かを探った時の記録です。
 当時友人などに送ったメールより転載しました。

DSC00014.jpg アフガン難民支援レポート(1)
 アフガン難民支援レポート(2)
 アフガン難民支援レポート(3)
 アフガン難民支援レポート(4)
 アフガン難民支援レポート(5)
 アフガン難民支援レポート(6)
 アフガン難民支援レポート(7)
 アフガン難民支援レポート(8)
 アフガン難民支援レポート(9)
 アフガン難民支援レポート(10)

旅はBirdyを連れて(3)

 アムステルダムは、自転車の町です。
 ほとんどの道路には、幅1mほどの自転車用の区画があって、自転車のマークが書いてあります。
 この運河が縦横にはしる狭い町の道路を、市電と自動車と自転車が見事の共存しているのは、日本では理解の外と考えられます。
 市電の停車場の横では、自転車と自動車は並走できませんが、自転車が走っていると、自動車は無理に追いこさず、待ってくれています。
 なにしろ、自転車を足として使う市民が多いので、自転車での走行は、日本のように危険ではないようです。

 もう4・5年も前ですが、町中至る所に張ってあった、キャンべ—ンポスターの文句は、「吸っていいですかと聞きましょう」という、喫煙マナーに関する標語でした。
 いかに共存するかが、この国のテーマと思われます。
 以前友人のパベルがアパート暮しの頃、階下から始終ドンドンと床に響く音が聞こえました。パベルは、下の住人が、音がうるさいと棒で天井を突いているのだといいます。古い建物なので、歩くだけで床がきしむのです。
「気にしなくていい」と、パベルはいい、日本の友人が来たんだと、後でプレゼントのお裾分けでもしておけばいいんだといっていました。そのときぼくが思ったのは、共存するためには、お互いに耐え忍ぶことではなく、不満を言い合って折れ合うことだということでした。耐え忍べば、どこかで爆発します。うまく共存は出来ません。
 そういう共存の精神がなければ、ワークシェアリングの先進国オランダから学ぶことはできず、日本の「ワークシェアリング」は、かけ声だけに終わるのではないかと思われます。

 ところで、旅の日程も半ばを越して、本当なら今頃は、ベルギーのブルージュにいるはずなのですが、実は、そうではありません。ベルギー行きは中止しました。理由は、ぼくが、またやってしまったのです。
 ニースを出るときに、セキュリティチェックで、腕時計とパームパイロットを置き忘れたのです。
 アムステルダムに到着後、調べてもらい(これは大変なことでしたが)、現物は確認出来ました。ところが、外国での遺失物は、管轄外ですし、KLMのオフィスはニースにはありませんから、その遺失物を送ったりするのは、ほとんど無理に近いのです。意を決して、取りに戻ることにしました。

 翌日つまり昨日、早朝アムステルダムからニースにとび、夜の便で取って返す、とんぼ返りをTransavia航空ですることにしました。
 トランサビア航空とは、ほとんど知られていないエアラインですが、KLMが作った会社のようです。イージージェット航空という大変割安のエアラインが出来たので、それに対抗してトランサビアが出来たのではないかと思います。
 ニースまでは、一時間半ほどで、のぞみで東京に行くのより早いのですが、値段は同じくらいです。9時前にニース空港着。ローストアンドファウンドデスクで、英語の全く分からないおばちゃんと押し問答の末、パームと時計奪還に成功。
 帰りの便は夜の九時なので、ニースの街に出かけることにしました。
 ニース空港から、ニースの海岸目ぬき通りまでは、20分ごとにバスが運行しており(3.5ユーロ)、まるでニセコのペンションの巡回バスのようです。プロムナードを散策し、ゆっくりした昼食を楽しみました。

 お昼に、豪華な食事を取ったので、夕食は、空港のレストランで、軽くすますことにしました。連れのともがチキンとアボガドのサラダをほとんど食べ終わった時に、その中のガラスの破片を発見したのです。
 ぼくは、ウエイトレスの若く可愛いおねえさんに、「これがあった。ベリーデンジャラス」と繰り返したら、彼女は何か答えましたが、意味が分かりません。シェフという言葉だけが聞こえました。それで、その皿を運び去り、知らん顔をしていました。
 シェフがやったことで、私は知らんことですと、言ったらしいなと思いました。もう出発の時間も迫っているし、「責任者を出せ」と言うほどリキもありません。
 勘定を頼んだとき、おねえさんは、サラダのお金はいりませんからと言ったのです。日本では考えられない筋書きで、びっくりしました。

 今日は、小雨の中を濡れるのをものともせずに、ピュリッツァホテルからローキン、ダム広場、ホテルオークラと走り回りました。自転車は、実に便利です。タクシーなど全然必要ないし、飲み過ぎ食べ過ぎの身体にもいい。
 今日あちこちで、「素敵な自転車だ」と多くの人にいわれました。ほとんどの人が、BDー1は日本製だと思っているようです。
 なぜかと考えたら、日本人は小さなものを作るのがうまいという事になっているからのようです。
 ある若者は、ぼくのバーディのことを、ビューティフルを連発してほめた後、「日本人は小さいものスマートなものを作る。車もそうで、アメリカ車はだめだよ」といったものです。いや、これは実は、ドイツパテントで、台湾製なのだとは、言えなくなってしまいました。

ブルージュは駄目になりましたが、アムステルダムの街を縦横に走れて結構ご機嫌です。今日は日曜で休みでしたが明日はやってることを確かめたので、ホテルオークラで散髪をして、明後日には、帰国の途に付く予定です。
では、これにて。
高田直樹

旅はBirdyを連れて(2)

 ここリモーネピエモンテは、イタリアはピエモンテ州の南の端、東のフランス国境に位置する山のリゾート地です。リモーネというのは、レモンという意味で、レモンの産地で、レモンリキュールが出来ます。
 ピエモンテとは、山の裾という意味で、州都のクーネオは、なんとなく大町を都市にしたという感じのところで、雪を頂いた山がせまる、なんともいい感じの町です。

 ピエモンテというと、日本ではピエモンテ産のワインでのみ名が知られいるだけですが、それだけではなく、リモーネピエモンテは、スキーで有名なところです。
 ホテルのマネジャーのベッペさんが、見せてくれたアルバムで、なんとなく見覚えのある顔があると思ったら、なんとあのステンマルクでした。彼はいつもここにきていたのだそうです。

 この界隈では今のところ、日本人観光客はもちろん、日本人には全くお目にかかりません。珍しいせいかジャポネはけっこう親切にしてもらえるようです。
 2006年の冬季オリンピックは、トリノで開催されるのですが、ここもコースに使われます。そのときになったら、日本にも名が知られ多くの日本の観光客が現れることでしょう。そして、ミラノの現在のように、日本人というだけでぞんざいに扱われるようになるのではないかと、少し心配しています。

 いま投宿しているホテル・エクセルシオールは、滞在型のホテルで、台所などが完備しています。もとモナコ王子の別荘だったところだそうです。
 国境のトンネルを抜けてワインディングを走り下ると、リグリア海岸のベンティミリアにいたり、ここから高速道路を走るとすぐにモナコです。リモーネから二時間足らずで着いてしまいます。高速道路代は、1.8ユーロ(約200円)でした。

 モナコにBirdyを持って行かなかったのは正解でした。モナコでは自転車で走れるところはあまりありません。なにしろ
斜面に張り付いたような国なのですから。
 モナコグランプリが迫っているようで、準備がたけなわのようでした。
 この国では至る所に公営のパーキングがあり、ほとんどが地下五階(ー5と表示)くらいの規模で設備は大変完備しています。料金は安く一時間までは無料です。スーツケースは、サムソナイトのいいのが買えました。155ユーロとは、アムステルダム空港のほぼ半値近い値段で、信じられない安さでした。

 Birdyですが、今日は昼過ぎから、この前とは反対側のホテルの裏山のコースを走りに出かけましたが、やはり急すぎるダートの道で、非力なエンジンのぼくでは走行不能、登りの2/3は、やはり押し歩き、持ち歩きに終始しました。このコースは、今日のようにエスケープしなければ、2300mほどの縦走路につながるので、山歩きとしては面白いと思いましたが、今はまだ雪があります。

河出文庫表面.JPG会社から、『なんで山登るねん』文庫版のサンプルが送られて来たとのメールがはいりました。表紙、裏表紙のスキャン画像が付いていましたが、その文がなんともすごいので、添付します。

 当地は、明日が最終日。クーネオに行く途中にあるランチアのディーラーで、日本では入手が困難な部品などを購入する予定。
明後日早朝に、車でニースに出て、空路アムステルダムへ。汽車でベルギーのブルージュに向かいます。
高田直樹

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