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16年ぶりの劔澤小屋(前編)

16年ぶりの劔澤小屋 〜プロローグ〜

 ちょうど16年前の夏、ぼくは関田を伴って、槍沢を登っていた。
 この前年、関田は大腸の一部を切除するという大手術を行っていた。彼と同級生の林隆彦ドクターに、彼が手術した病院を訪ね手術の結果と経緯を調べるように依頼した。その結果、切除手術は問題なく行われ、転移も認められないことが分かった。
 安心はしたものの、再発は皆無とはいえなかった。
 その年の夏、ぼくは関田を槍ヶ岳登山に誘った。体力の回復に益するだろうし、もしかしたら最後の山登りになるかもしれないと思ったからだった。案の定医者を始めみんなが反対した。しかしぼくと関田は、林隆彦ドクターの「まあ、山はそんな激しい運動でもないからなぁ」という言を盾に、この槍登山を決行した。
 幸いこの登山は無事成功し、関田は着実に槍沢を登り、槍ガ岳の頂を踏んだ。槍沢を登る途中ずっと関田の調子が気になって、その足取りばかりを追い続けていたぼくは、おかげでばててしまったんだけど。
 飛騨側の千丈沢、新穂高温泉へと下山する関田、桂高校山岳部の顧問を引き継いだ井上君らと分かれ、ともとトッツァンとぼくの三人は劔岳への縦走に向かったのだった。

 学生の頃、重荷を背に縦走路を歩きながら、いつか小さい荷物を持って小屋に泊まりながら縦走したらどんなに楽しかろうといつも思っていた。この時、だから念願だった小屋泊まりの縦走をした訳だ。
 この初めての小屋泊まりの縦走は、実に愉快なものだった。同行の二名はどちらも桂高校の教え子で、長い付き合い。いつもばて気味のぼくをよくかばってくれた。
 槍を出て、双六、黒部五郎、太郎平、スゴ乗越、五色と泊まりを重ねて、劔澤についた。いつも一番遅い出発で、一番遅い到着だったが、いま思い出そうとして、あまり多くを記憶していないことに気付いた。
 このコースで、一番気にしていたのは、スゴ乗越の雷だった。この場所では何度も激しい雷に遭遇した経験があった。また、ぼくが入部する前の話だが、大学の山岳部の先輩が、ここで雷撃によって死亡している。山岳部のルームにはここに雷が落ちたのだという遺品のピッケルがあり、ぼく達はそれを「雷ピッケル」と呼んでいた。
 だからここの遭難碑のある地点は早い時間に通過したいと思っていた。

 その場所は、雷雲が押し寄せる前に通過できたが、その後、樅沢岳を越えたあたりで、強烈な雷雨に見舞われた。目の前が真っ白になるような稲妻の中を、なだらかな下り勾配の流水にえぐられた登山道を駆け下りながら、ぼくは危険を感じた。
 そばの這い松のなかにある岩塊の部分に避難した。こうした場合くぼみに隠れるのは極めて危険である。山頂に落ちた雷の電流は地表を走るので、窪地には二時雷撃が発生する。
 ツェルトを被ってお茶を沸かしながら、約一時間雷をやり過ごした。これはいまも忘れない思い出である。
 そしてもう夕闇の迫る五色小屋に着いたのだが、この小屋での翌朝のことも忘れられない記憶だ。どこかの10名ぐらいのおばさんグループが朝の4時過ぎに起きだし、とんでもない大声で話しながら出発の準備を始めたのだ。
 ぼく達は、テント場で暗いうちに出発するときなど、押し殺した小声で話し、周りのテントの人たちが目覚めないように気を配ったものだった。なんという人たちだとほんとに腹が立った。
 後で山渓でこの話をすると、このごろの中高年登山の人たちはみんなそんなマナー知らずの輩ですよといわれた。

 たどり着いた劔澤の小屋は、ぼくが若い頃に入り浸っていた時の場所とは違うところにあった。劔澤の小屋は、昔からあった劔澤カールの中央から右岸の別山からの尾根の斜面に移動していた。
 劔澤小屋は、例年のように雪崩に見舞われた。これを防ぐため雪崩止めの石垣をまるで要塞のように積み上げてはいたが、それでも一部が破壊されるのが常だった。
 文蔵の息子の友邦は、これを嫌って父親から小屋を引き継ぐとともに、雪崩の来ない場所への移動を決意した。
 「おれは、ずっと五月にここに来るたびに毎年観察を続けとったんや。その場所にデブリの後は一回も見たことはないちゃぁ」
 ほんとにその場所で、大丈夫なんかというぼくの問いに、彼はそう答えた。
 ところが、この新築された劔澤小屋には、まったく予想もしなかった問題が発生したのだ。たしかに雪崩は来なかった。しかし、斜面に厚く積もった積雪は、そのまま残雪そして雪渓となった。厚い氷の層は徐々に下方に移動しながら小屋を押し倒そうとした。
 小屋上方の雪の層を取り除き、傾いだ小屋を毎年押し戻して復元しなければならなかった。石垣を積むことによってもこの雪の圧力は防ぐことは出来なかった。

劔岳.jpg 今回16年ぶりに訪れて分かったのだが、劔澤小屋は再来年元の場所に戻るのだそうである。完全な防壁となる高い石垣を積み、積雪期は雪に埋もれるようにする。雪崩はその上を通過させるという考えだそうである。二代目の友邦は二十数年の間、押し寄せる万年雪ともいえる雪の層と戦い、三代目の新平君に代を譲るとともに、再度の移転を決意したと思える。
 雪崩を飛び越えさせるという発想では、二階建ては許されず平屋となり、部屋数も減る。畳敷きで雑魚寝をし、車座になって語り合った、あの昔の山小屋はなくなり、すべて蚕棚寝床となる。何ともうら悲しい気がしてしまう。

 昔語りばかりで、紙面を費やしてしまった。この項をプロローグとし、本題に入るのは次稿とさせて頂きます。

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