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  • Archives: August 2007

5.教師らしくない大先生たち

    ♣

 自宅から通勤することになって、それはいいですななどと人から云われましたが、ぼく自身、あんまりよくなかったんです。だいいち、前みたいに、学校のチャイムが聞えません。朝に弱いぼくは、よく電車に乗り遅れました。
 五、六年前、学校の健康診断で、低血圧気味ですと告げられたので、自覚症状はありませんが、どういう症状が起こるんですかときくと、そのお医者さんは、
「朝が起きられません」
と答え、ぼくはハタと手を打つ気分で、大喜びで、
「そうですか。そうでしょう。ぼくはもうずっと前から低血圧だったはずです」
 おまけに、彼は「お酒を飲むと血圧が上がるので、正常になるので、きっと調子がよくなるはずです」 といい、ぼくはますます大喜こびで、
「そうです、その通りです」
と、合槌をうったものでした。
 ところが、そのすぐ後で、カラコルムに遠征登山に行くことになりました。隊のドクターで、ぼくの山の後輩のタカヒコは、「右と左とは同んなじとちがうんやで」といいながら、えらく真剣に測定してから、
「どうもあらへんやん、タカダはん」
ぼくは必死になって、
「いやそんなことない。低いはずや」
5-1.jpgと、がんばりました。
「そやけど、この通り正常でっせ。その時たまたま低かったんやろ」
 な−んや、あほらしい。あれは間違いやったんか。そうすると、オレの寝呆うは、やっぱり、ぐうたらの所為なんか。ぼくは、ガックリきてしまったのでした。
 さて、遅刻してはならんと、オフクロに、「起こしてナ」と頼んでおいても、自分も学校勤めで、自分が遅刻せずにゆくだけで精一杯の母親は、一声かけるだけで、飛びだしてしまうのが常でした。
 起こされてサッと起き、顔を洗って、さて、少し早く起きすぎた。ちょっとうたたねする位の時間は充分にある。もうしばらくウトウトするか、などと思っていると、なんのことはない、それが夢で、まだ寝込んだままでした。
 顔も洗わずに、駅まで全力疾走。枕木の柵に張った鉄線を足場に、柵を飛び越して、入って来た電車に飛び乗り。国鉄の車中でまた眠り込んで、亀岡駅につくと、学校まで、またひと走り。いまチャイムが鳴り終った所です。正門まで廻るのは時間が足らないし、遅刻したのがバレてしまいそうな気がしました。生垣の隙間から学校にもぐり込むと、目の前が、一時問目の授業のクラスでした。そのまま、教科書なしで授業を終えると、生徒にカバンとオーバーを渡し、
「これ、分らんように、ソッと、ワシの机の上に置いといてえな」
と頼んだのです。

    ♣♣

 ある日の昼さがり、まだその中学へ行って数日しかたっていない頃だったと思います。 隣の机のオヤブンが、ぼくに、突然声をかけました。ちょっと出掛けようというのです。
 このハマダ先生は、なんか、ジャン・ギャバンによく似ているのですが、ヒョロッとしているので、なんだか栄養失調にかかったジャン・ギャバンという感じです。ぼくが、初対面で、
 「ジャン・ギャバンに似てますなあ」
というと、彼は、わが意を得たりという顔で、目をギョロッとむいて、
「ワシ、むかしなあ、ギャバンの〈ペペルモコ〉ちゅう映画がきて、似てるいわれて、スケペペゆうあだ名ついたんや」
 「はあ?」
 「あんな、スケベーなペペルモコゆうことや」
 ほんとに、もの腰が、古きよき時代のギャング映画の主役そっくりなんです。
5-2.jpg ぼくは、直ぐ、彼に、オヤブンというニックネームをつけました。もちろん、この命名は、ぼくだけしか知りません。でも、そう思っていると、態度まで、親分に対する子分の様になったのか、少したって、彼が誰かにぼくのことを、若いのに見どころのある奴や、といっていたということをききました。ただ、その理由というのが、なかなかケッサクで、オレがタバコをくわえると、サッと火を出しよる、というのです。
 オヤブンは、ぼくを伴って外に出ると、カブの後ろに「乗れ」と命じ、ぼくを乗せると校門を走り出しました。ぼくたちは、学校の近くの美容院へ行ったのです。そこのマスターは、彼のクレー仲間のようでした。オヤブンは、クレー射撃の名手で、国体選手なのだそうです。その美容院で、ぼくは散髪させられたのです。若い美容師さんが、たくさんいるので、ぼくは少しテレていました。
数日して、オヤブンは、またぼくを連れだすと、こんどは9号線を東に向かいました。
気がつくと、ヤギセンや、フジムラはんや、フクチはんも、一緒に走っています。どこへ行くのかと思っていると、老ノ坂の上にある茶店が目的地で、そこへ、「ぜんざい」を食べに行ったのです。
 みんなほんとにゆかいな仲間という感じで、全然先生らしくありません。ところが、ひとたび会議となると、彼等は教育論をとおとおと述べるのです。少しびっくりしました。 ある時、陸上競技部の部員が急増したので、スパイクが全然足らなくなり、なんとか買い足してほしいと、ぼくはクラブ予算担当の先生に頼み込んでいました。その先生も、他の先生も、
「そら無理ですよ」
と、全然取り合ってくれません。その時、オヤブンが横から口をはさみ「ワシの部の剣道部の金を廻したる。残りは出してもらえ」といってから、少し声を高くして、
「タカダ、若いうちや。思う通り存分にやれ。骨はワシが拾うたる」
 スパイクはみんな買えたんです。

    ♣♣♣

 フジムラはんは、職員会議の時、ぼくの隣りで、ノートにメモを取りながら、時々ぼくに耳うちしてくれました。
「あの人の発言、よう聞いててみ。面白いで。賛成とも反対とも分らんようにしゃべっとるやろ。ああしながら、みんなの様子を見とるんや。それで、どっちが多数かということを見極めたら、最後に多数の方に賛成の意見にして締めくくりよる。そんで状勢がつかめんかったら、そのまま終りよるんや。まあ、そういう風に観察しながら聞いとったらオモロイで‥‥‥」
 なるはど、そう云われてみるとそうみたいでした。まあ、職員会議で発言するしないに関係なく、こうした風な教師は、けっこう多いんではないか、とぼくは思っています。
 フジムラ先生は、「川遊び」 が趣味で、夏休み中、保津川で素もぐりをやるんだそうです。ぼくも、中学・高校を通じて、木津川で素もぐりに熱中した経験があったので、話が合いました。
 夏休み前、彼は、全く突然に、
「オレには夢があってなあ」
と、話し出したので、一体なんのことかと思ったら、水の底でウンコしてみたい、というんです。
5-3.jpg ぼくの山の後輩にも似たようなことを考えた奴がいて、彼の場合、正月元旦の朝、日本アルプスの白馬乗鞍の二九〇〇米の頂上雪原にしゃがみ込み、初日の出と、ウンコの出を一致させるというものでした。彼は、三年越しで、このトライアルを成功させたんです。
 このことを、フジムラはんに話すと、ワシもやるで、などといっていました。それにしても、水の底で、息がつづくのかしらん、とぼくは心配になりました。
 夏休みがすんで、学校にゆくと、彼はぼくを見るなり、
「タカダはん。やったで」
 頭のうえの方で、水面がキラキラと輝いていて、そこへ向かって、ウンコがスーツと浮上していったんだそうです。その様を頭に画いて、きっと美しかっただろうなあ、とぼくは思い、少し感激していました。
 さて、オヤブンは、あの美容院の二階で、時々、8ミリの映画会を聞いていました。来いといわれてゆくと、彼のクレー仲間や連れの教師が集まっていて、自分が写した「きじ撃ち」のハンティングの映画をやっています。
 ストーリーも何もない、犬がポイントし、ハンターが構え、鳥がストンと落ち、犬が獲物を口にブラブラさげて帰ってくる。そんなカットの、全く単調な繰り返しです。ほんとうにうんざりしました。時々、ブルー・フィルムがはさまることがあって、こっちの方は、あんまりうんざりしませんでした。
 ある時、校長が来ていて、ブルー・フィルムを見ていました。全然悪びれず、
 「うーん。おもしろいなあ」
などといっているので、ぼくは、なるはどこれは大親分だと思ったのです。

    ♣♣♣♣

 今までに、ぼくが出合った校長 --般的には、こういう時は、仕えた校長といいます--は、のベ七人なのですが、あの校長は、その中でも少ない大校長の部類に属していたように思います。
 事実、大校長や、ということになっていました。巨躯をゆったりと保たせて、常に鷹揚にかまえ、口数は少ない方で、だいたい「ハッハッハァ」と笑ってるだけという感じでした。時としてしゃべると、身体に似合わぬ細い声で、冗談とも皮肉ともつかめぬようなことをゆうんです。
 まだ、海外旅行が珍しかったその頃、彼は教育視察団として、訪米しました。その報告会をやるというので、ぼくも聞きにいったのです。当時ぼくは、海外での山登りをめざしていて、英会話の勉強をしたり、英文タイプの練習をしたりしていました。きっちり聴いて何かを盗んでやろうという気分でした。
 ところが、彼の話は、羽田飛行場を飛びたつ所から始まったかと思うと、
「さすがに飛行機は高い所を飛びます。なにしろ、雲が下に見えるんです」
 いや、びっくりしたというか、アホらしくなりました。そんなもん、山に登っても雲ぐらい下に見えるわい、とぼくは思いました。
5-4.jpg アメリカに渡ってからの話で、町を歩いていると、立看板があって、NO COVER と書いてあったのだそうです。連れの校長が、
「ノーカバーちゅうのは、カバーがないんやから、これはきっとストリップや」
そういったんだそうです。
 中に入っても、どうも様子がおかしい。そこは大食堂で、
「ノーカバー」というのは「ノーチップ」つまり「チップいりません」という意味だった。
「やはり、英語ぐらいは使えるようにして行かないと、こういう失敗をします」
てな調子で話は終り、ぼくは、はぐらかされっぱなしだったのです。
 でも、こんな愚ともつかぬ話を大真面目でやれるとは、やっぱり大したもんだ、とも思ったのでした。
 この学校は、校長室の真横に教室があって、そこでの授業の話は、校長室につつ抜けに聞こえるという話でした。大方の教師は、この教室で授業するのをいやがっていたようです。でも、ぼくは全然気になりませんでした。人が聞いていようがいまいが、自分でやれるようにしかやれんではないか。ぼくはそう開き直っていたのかも知れません。
 大体、どの校長も、教師の授業を聞こうなどとはしない。そういうことをしてはいけない、と思ってるかのようです。どうしてそうなのか聞いたことはありませんが、変な話だという気がします。
 ところで、あの校長は、やっぱりぼくの授業を聞いていたらしいのです。ぼくの離任式の時、ぼくのことを「極めてユニークな授業をなさいました」などといったのです。

4.神のみが知る才能の限界

    ♣

 一年もたつと、陸上部は、ずいぶんしっかりしたクラブになっていました。男子部と女子部があって、それぞれ数十人の部員を擁し、大会では、男子優勝、女子優勝、総合優勝という具合でした。
 他所の中学では、大会前に、体育の先生が、速そうなのを授業の時に選んで連れてくるのですが、こっちの方は、連日、走るだけでなく、スタートの練習から、バトンタッチの練習までやっているのですから、勝って当然の話でした。
 ただ、部員の大部分は、あんまり勉強の好きでない、というよりか、全くキライな連中でした。ぼくは、人に、「遅進児救済クラブみたいなもんですよ」とふざけていました。まったくの話、授業の時には、ドロンとした眼をして、まるで死んでるみたいな奴が、生きかえった様に走っているんですから……。
 その頃、もうぼくは、前のように、毎日一緒に練習するということもなくなっていました。もう放っておいてもよいと思っていました。
 そんなある日、ぼくが廊下を歩いていると、一人の背のスラリとした生徒とすれ違ったのです。ヒョイ、ヒョイと歩いてくる様を目にとめていて、ぼくは何となく気になりました。
それでふり返ると、
「ちょっと、ちょっと」
と呼び止めたのです。
4-1.jpg「君、なんか運動クラブに入ってるんケ」
「いいえ、ブラスバンド部です」
 ぼくは、彼の身体を眺め廻しながら、
「ふうん。どこにも入ってへんの」
「はあ、ブラスバンドの指揮やってます」
 そう言われて見ると、たしかに、ブンチャカ、ブンチャカの先頭に立って、長い棒をツータカ、ツータカと振ると、きっとカッコいいだろうという気はしました。
 でも、グラウンドのトラックを疾走したらもっと絵になる、とも思ったんです。
「どうや、いっぺん走ってみいへんか」
それで、ぼく達二人は、亀高グランドを走ったのです。思った通り、彼は、流れるような、しなやかな走りをしたのでした。
 これはいける。ぼくは、口丹波大会に出るように説得し、彼は、
「出てもいいっちゃ」
といったのです。
 種目は、四〇〇米にしました。いや、別に理由はなかったんです。何となく、そうしようと思っただけです。
 口丹波大会は、もう一週間先に迫っていました。練習する日は少ししかありません。でも、ぼくは彼にそんなキツイ練習を課した記憶はありません。ごく普通のインターバル・トレーニングという持久力をつける練習をしただけです。
 彼を勝たせようなどとは思いませんでした。入賞するとも思いませんでした。ただ、彼は、ぼくがパッと見て、イメージした通りの走りをした。そのことだけで悦に入っていた。それだけのようです。
 ところが、驚いたことに、彼は悠悠一等になってしまったのです。

    ♣♣

 ほんとにびっくりしました。嬉しいびっくり、というべきでしょうか。
 でも、もっと驚いたのは、当の本人だったかも知れません。
「さあ、府下大会で、がんばれよ」
と、ぼくがいうと、延増君は、
「ええ、ええ」
と、ニコニコしていました。
 府下大会まで二週間位だったでしょうか。
 こんどは、ぼくも、かなり真剣にコーチしました。でも、陸上部に籍を置いたことのないぼくには、特にこれといった知識も、方法論もありません。ぼくがやったのは、下級生と競争させることでした。対等にやったのでは勝負は決っていますから、下級生二人のリレーと競わすのです。この方法は、リレーのランナーを替えたり、順番を変化させたり、あるいは、人数を増やしたりして、ぼくのイメージするスピードで練習させることができるんです。これはかなりキツイ練習だったようです。だって、相手はいつも二人以上で、とっかわりひっかわり、いつも新手なのですから……。
 エンソは、毎日黙々と、下級生を必死に追いかけていたのです。
4-2.jpg 府下大会の日、西京極の競技場に入ると、褐色のアンツーカーが鮮やかに目に映り、どこかの女子高生が、まるでかもしかのようなしまった肢体をはづませて、走っていました。観客は少ない方です。高校野球のような、お祭り騒ぎがきらいで、観客のいない山登りというスポーツをやってきたぼくにとって、好ましい雰囲気がありました。
「予選では、通ることだけ考えたらええ。全力だすな」とぼくは指示しました。エンソはなんなく予選をパス。決勝に進出です。
「第一コース、ノベマス君、亀岡中学」
というコ−ルがあり、誰のことかと思ったら、エンソの事でした。訓読みしたんです。
 四〇〇米競争は、セパレートコースですから、奴は、一等内側で、一番後に立っています。六人のランナーは、静かにひざを落し、ぼくは、口がカラカラに乾き、ひざが少しふるえていました。
 ターンという音と共に、六人のランナーは流れるように走りだしました。エンソは一番ビリです。カーブから直線コースに入るところで、ひとかたまりになり、ああっ、奴はトップ。グングンとばし差があき、独走のままゴール。二位とは五、六米も問があいていました。
 やったあ、と叫び出したいのをこらえて、ぼくは、つとめて平静さをよそおっていたのです。驚いたのは、ぼくではなく、他校の先生や、高校の顧問だったようです。彼は全く無名で、ほんとのダークホースだったからです。おまけに、新記録だったのですから……。
 直ぐ、何人もの私立高校の先生が、極めて丁重な態度で、トレードに現われましたが、ぼくは、いや、それは本人の意志次第ですから、と答えていたんです。

    ♣♣♣

 満一歳で、祖父母のもとに預けられ、山羊のミルクと卵黄で育てられたぼくは、小学生の頃、ひどく身体が弱かったようです。週に一・二回は、鼻血がでたとか、脳貧血で倒れたとかで、保健室のやっかいになっていたそうです。
 それが、カゼ一つひかないようになったのは、中学でバレー部に入ってからだと思います。帝塚山学園は、中学・高校が一緒でしたから、毎日、高校生にしごかれました。目の前が真暗になって、気がついたら、バケツの水をぶっかけられていたというようなことが何回かありました。帰りの西大寺駅の乗りかえのベンチで、眠り込んでしまい、気がついたら一時間もたっていたというようなこともありました。
 県立奈良高校では柔道部でした。柔道部に入ったのは、一つには、集団競技にいや気がさしたとまではいかないにしても、自分だけの力をためすようなことがやりたかった。もう一つには、中三の時、ヤクザにからまれ、ひどくビビったことがあって、ケンカに強くなってやろうと思ったのが、その理由のようです。
4-3.jpg それで、一年生の一月に十日間の寒梧古がありました。まだ暗いうちに起きて、初発の電車で学校にゆきます。一回も遅刻せず、皆勤で、無事終了証をもらいました。
 それまで、学校に遅刻ばっかりしているぼくに、あいそをつかしながら、文句ばっかりいっていた父親に、母親は、この頃、
「この子は、自分でやろうとしないとやらないし、やろうと思ったらやるようだから、もう一切何も云わないでおこう」
と、提案していたようです。
 大学で、山岳部に入り、勝負する相手が人間ではなく、とてつもなく強大で、非情な自然であるという、これまでと全く異質な世界を知りました。それまでの勝手気ままな山登りではない、冬の岩壁登攀という、苛酷でごまかしのきかない空間で、ぼくは始めて、頼りになるのは自分だけという世界を知ったようでした。
 その頃、ぼくが、まだ主流ではなかった岩壁登攀を目指したのは、人数の少ない部員で、関東の連中に負けないためには、少数精鋭主義で、未登の岩壁を攀るしかなかったからだと思います。そして剱岳東大谷GIの初登攀に成功し、ぼくは京都新聞に原稿を頼まれました。この原稿をスポーツ記者がリライトした記事は、特集の二面見開きで載りました。
 そしていま、ぼくが亀中で初めた陸上競技は、またこれまでとは異った面白さがあった。それは、何日間もかかる山登りと較べれば、勝負は一瞬に決まり、時には、一秒の数分の一で、勝敗が分れる。
 もちろん、エンソを練習させるという要請もありましたが、ぼく自身、自分が走ることに夢中になっていたようです。
 府下大会で圧倒的に優勝したエンソ君の近畿大会は、一ケ月後に迫っていました。

    ♣♣♣♣

 実をいうと、ぼく自身も、大会に出てやろうと思い定めていたのです。
 京都府教職員陸上競技大会というのがあって府下の幼推園から大学までの教師の大会です。ぼくは、一五〇〇米と一万米の二種目にエントリーしておきました。
 必要にせまられて、体育生理やトレーニング論や陸上競技の技術書などを買い込んで、勉強もしましたが、不思議に、人に聞こうという気はしませんでした。これまでの山登りで、誰も攀っていないルートを拓いたり、人のやらないようなことを主にやってきた経験から、人にきくことなんて、あんまり意味ない。自分でやみくもにやってみる方がいいんだ、などと勝手に考えていたようです。
 それで、やっぱりぼくも、エンソがやったのと同じように、リレーとの競争という方法で練習していました。ただぼくが気付いたのは、短距離に弱い、つまりスピードがないということでした。
 スピードを増すための特別な練習法など、あんまりどこの本にも書いてありませんでした。ただ一つだけ、ある本に、「スピードは先天的なもので、後天的にこれを得るのはむづかしい。もしかしたら、坂道を走り降るとか、追い風で走るというのが効果的であるかも知れない」と書いてあったのです。
4-4.jpg ちょうど、うまい具合に台風がやってきました。ぼくとエンソは、誰もいないグラウンドで、すごい雨風の中を走りました。エンソは、だんだんバテてきて、ゆっくり走るようになったので、ぼくは激しく背中を突き、彼は泥の中にのめり倒れたのでした。
 さて、服部緑地公園競技場で行われる近畿大会に、エンソとぼくは、盛大な見送りを受けて出発したのですが、結果は駄目でした。予選は三位でからくも通過しましたが、決勝では六位、つまりビリだった。記録は、彼としては悪くなかったんです。なるほど、上には上があるもんだ、とぼくは思いました。でもまあこれからや、とぼくは彼をはげましていたのです。
 その後彼は、亀高へ進み、陸上部で練習をつづけ、さらに、広島大学の教育学部に入ってからも陸上部でがんばったのですが、以後記録は全くのびなかったのだそうです。とうとう見切りをつけて、大学二年生の時、ラグビー部に移ったと聞きました。
 人間は盆栽の木みたいに勝手に造れる訳じゃなし、才能だって、神のみが知る限界があるのかも知れん。あの当時、彼の隠れた才能を見つけ出したような気になっていたぼくは、複雑な気分で、考え込んでしまったのでした。
 一方、ぼくの方は、一五〇〇米も一万米もどちらも優勝しました。相手たちが弱かったのだろうとは思います。それにしても、大学時代に競技部だったホンチャン教師が沢山出場していましたから、スパイクもはかず、ただ一人ズック靴で走って優勝したぼくは、まんざらでもない気分でした。でも、これを機に、さらに「走り」に打ちこむなんて気はあんまり起らなかった。
 なんぼ走ったかて死ぬことないもん。やっぱり、ぼくの前には、まだ見ぬヒマラヤの高峰がそびえ立っているような感じだったのです。

3.生徒も教師も問題がないのが問題

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 夏休みがすんで、ぼくは亀中に行きました。夏のシーズン中、約四〇日間は、ずっと北アルプスの山の上にいましたから、黒光りに日焼けしていたはずです。
 教頭は大柄な体躯をしゃんとのばして、すこししゃがれた声で、
「よう来てくれちゃったなあ」
といい、ぼくのオヤジが元気かとききました。彼は、ぼくの父の後輩だそうで、「剣道部では、えらくしぼられたもんや」と話しました。
 なるはど、ぼくは二代目であったのか、とその時思ったのです。まあ考えてみれば、売家と書く三代目よりはましかも知れません。
 大学山岳部の後輩のタカヒコは、医学部に進んでしばらくした時、ぼくにこんなことを云ったものです。彼も二代目なのです。
 医学部におる学生を三つに分類できる。一つは、ワシらみたいに、家が医者やし、何とはなしに医学部にきたやつ。もう一つは、もうかるし、医者になったろ思うてきた奴。最後は、医者というのは崇高な職業や思うてる連中。まあ、二番目の奴らはよろしいねん。いちばんどうしようもないのは三番日の手合いでっせ。どうにも話が通じへんのです。
3-2.jpg この頃、新任の教師を見ていると、教師が神聖な職業やなんて思ってる人はないようだけれど、何とはなしに教師になったなんて奴はまあいないようです。そして、彼等はみんな激烈な試験をパスしたせいか、多分成績はよかったんでしょうが、変に生気がなくて、なんやら、できの悪い銀行員みたい。
 おまけに、みんな、念願かなってセンセになったからか、もう生涯の目標を達成したみたいな顔しとるんです。うら若い身空で、まるでオジンみたいで、ほんとに気色悪いんです。
 さて、タナカ教頭は、ちょっと話しただけで、えらく打ち解け、
「この学校には、何人か、問題の教師がおってなあ」
と、その名前をあげ、「彼等を指導してやって下さいよ」などといったので、ぼくはえらく面喰ってしまいました。
 いまのいまフト思ったのですが、ひょっとして、ぼくの学校で、教頭が新任の教師におんなじようなことを言い、ぼくの名前をあげとるかも知れんなあと考え苦笑したところなんです。
 それから教頭先生は、若い人には運動部の顧問をやってもらうことになっていると告げ、何がいいかを聞きました。ぼくは少し考えてから、
「一番、弱体な部にします」
「そんなら、陸上はどうやろ。昔は強かったんやが、今は、部員は一人だけ‥…」
 翌日、放課後、コリッとした上背のある身体で、イガグリ頭の少年が、ランニングシャツ姿で部屋に駆け込んでくると、ニキビ面の眼をクルクルさせながら、えらく大声で、
「センセ、走りましょ。陸上部のヤマダです」
 そういいながら、彼はジョギングを続けているのです。

    ♣♣

「そら、走ってもええけど、ワシ、トレパンないしなあ。あした走る」
「いや、今日走ろな。トレパンやったら、ボックスにある。センセいま走ろ」
 彼は眼をむいてそう挑みかかるようにいい張り、ぼくは少々、彼の挑戦を感じていたのでした。
 はしりには自信がありました。中学一年の時に、マラソンはいつも一番か二番だったので、駅伝にでてくれと頼まれた位です。高校でも体育祭では、いつも一五〇〇にでて、陸上部の奴等にも負けなかった。もちろん、体育祭が近づくと、一人夜中に秘密練習をしましたけれど‥‥。大学の文化祭では、いつも山にいってましたが、マラソンのある日には、躯け戻り、いつも優勝をさらったので、大果物籠やその他の賞品めあてに参加した他のクラブの連中は、ぼくが現われると、イヤな顔をしたものです。
 ヤマダ忠平は、ぼくを睨みつけながら、まだ足踏みを続けています。
「よし、走ろ」
3-1.jpg ぼくがそう言い終わらないうちに、彼は矢のように走り出てゆきました。
 彼がもってきたトレパンは、とても小さくて、ぼくは毛ずね丸だしという態のまま、近くの亀高グランドに行きました。
「センセ、あのラグビーのゴールまでやで」
 彼は、パンと手を打つと、スタートしました。ぼくは彼のわきに付けました。
 なるほど、いうだけあってけっこう速い。ぼくは、そのまま走り、ゴール手前で、スッと抜きました。
「もういっぺん」
 彼はそういい、ぼくはニヤニヤしていました。
 こんどは、ぼくも、真剣に付けました。短距離はあんまり得意じゃありません。やっぱり、こんども最後で抜きました。
「おかしい、センセ、も一回」
 彼は肩をはづませながらいい、ぼくもやっぱり息をはづませて、
「ヨッシャ、何べんでも、やったるで」
 こんども、おんなじようになり、ぼくたちは、こうしたインターバル練習みたいなことを、七回位やったでしょうか。彼は、ようやく、あきらめたようでした。
「センセ、もう帰ろ」
 翌日、体育のアカマツ先生が、
「忠平と勝負したんやて。アイツ、この学校中で、俺に勝つ奴はおらん思てたのにショックやったようです。教科書はロッカーに入れっぱなし。体育の時間でも皆んなと体操しよらんのです。やれゆうと、オレ陸上部や、オレの体育は走ることやゆうて、喰ってかかるんです。まあ、アイツ、走ることだけが、生きがいみたいなもんやし、放ってあるんです」
 午後、職員室の窓から外を見ると、丁度体育の授業でした。聞いた通り、みんなが徒手体操をしているのに忠平はただ一人、大きくももをあげて、トットコ走っていたのでした。

    ♣♣♣

 忠平と勝負した日から、放課後走るのが、ぼくの日課になりました。だって、毎日のように彼が誘いに来るんですから……・。
 でも、もう勝負するという感じはなくなり、ぼくは、彼と並んで走りました。
 一週間もしないうちに、みるみる部員が増え、二ケ月ばかりで、四〇人ほどにもなったでしょうか……。忠平が、そうした一クラス近い部員を後に従え、後に長くたらした白はちまきをなびかせながら、ターッと校門を走り出てゆく様は、なかなか颯爽としたものでした。
 彼は、この一五〇〇人近い中学で、一番ケンカが強いという話でしたが、自分ではそうは云わず、
「この学校で遅刻が少ないのは、オレが、遅刻係りをやっとるからやで」
といばっていました。それに、助っ人が好きで、ケンカでもあると、すっ飛んでいって、いい格好をするらしい。不思議に、下級生の女子に人気があって「忠平ちゃん」の名は通っていました。
 ある時のことです。
 ぼくが体育館にいると、一人のヤクザ風の男が土足のまま上ってきたので、注意すると、その男は物凄い勢いで、ぼくに喰ってかかり、凄んだのです。こら、ケンカになるのかな。困ったな。ぼくはそう思いました。
3-3.jpg 学生の頃、よく河原町あたりでケンカしたことがありましたが、ぼくのやり方は、ケンカになるなと思ったら、ともかく一発ぶちかまして、全力疾走で逃げるというものでした。
 でも学校では逃げる訳にはゆきません。
 その時、息せききって忠平が駆けつけ、ぼくを押しのけると、
「センセ、どき。オレにまかして」
と、睨み合いになっている二人の問に割って入ると、肩をいからせ、首をつきだして、大声で怒鳴ったのです。
「ワレはどこのもんじゃ。オレを誰や思うとんねん……」
 ひとかどのヤーサンみたいなオニイサンを向うに回して、このセリフですから、今こうして書いていても、嘘ついてるみたいな気がする位で、ぼくはびっくりしてしまい、呆然とつっ立っていたようです。
「はよ出て失せんかい」
とやられて、男はプイと出ていったのでした。
 口丹波の地区大会では、あまりの実力差をいいことに、カーブで肩をふって、何度も他の選手をふりとばして遊んだりしました。そのため、インターフェアをとられて失格し、泣きながら、スパイクで審判長をなぐったるといきまいたり、彼に関しては、色んな面白い想い出がありますが、もう止めにします。
 それにしても、今日びの学校には、もう、あの忠平のように生きのいい生徒はいない。そんな気がします。いるとすれば、それは、教師不信にこり固まった、いわゆる「ワル」でしかない。
 それと同時に、「走るのが生きがいやから」と、授業時間に勝手に走るのを許すような、そんな度量のある教師も、もういない。

    ♣♣♣♣

 もし忠平が、いまいたとしたら、やっぱり問題生徒ということになるでしょう。そして、その行動を認める教師も、やっぱり問題教師ということになる。でも当時、そんなこと問題ではなかった。
 考えてみれば、亀中には、新米教師のぼくを瞠目させるような、もっとすごい問題教師がゴロゴロいたんですから……。
 チョウヤンは、たしか数学の教師だったけれど、中学生に、微分・積分を教えるということで有名でした。生徒が分ろうが分るまいが、そんなことはおかまいなし、という話でした。そして、生徒が、問題を解いている問に、グウグウいびきをかいて寝込んでしまうという噂でした。もっとも、噂というものは、常に、誇大になり、尾ひれのつくものではありますが……。
 彼は、日写連の会員だそうで、よくカメラを持ち歩いていました。
 体育祭の日、彼は、女子走幅飛びのフィールドに歩みよると、その踏み切り点の傍に、ゴロりと横たわり、空にむけて、カメラを構えたのです。女子生徒は、はずかしがって飛ばないし、ちょっとその競技はもたついたのですが、誰も注意しませんでした。
3-4.jpg ぼくは、何とスケベな教師だと、少々いやな気がしたのです。でも、狙った写真をとろうとしたら、これ位のことは平気でやれないと駄目なんだと、今にして思います。
 さて、そうしたところでは、ぼくなんか、極めてマトモで、問題の教師とはならなかったんではないでしょうか。
 ところが、今の高校に移ってすぐ、ぼくは結婚し、その披露宴に、チョボヒゲの校長がきて、ぼくが問題の教師だみたいなことをしゃべったらしい。この校長、大学山岳部の先輩や後輩が主催する、そうした型やぶりの披露宴が気に入らない感じで、ふくれっ面していました。だから、そんなスピーチ、あんまり聞く気もなくて、ぼくは他のことを考えていたのだと思います。
 あとで、出席者のサイン帳を見たら、医学部のインターンで後輩のタナカが、——問題のない教師こそが問題なのです——と書いていました。なんと、慰めようもあるもんだ、と思いました。
 それにしても、いまや、教師も生徒も、問題児がいなくなりました。そしてほんとに本質をはずれたチマチマしたことに目の色を変えているかのようです。
 どっちも、どっちで、やたら狭量になり、偏執狂的に睨み合っている感じです。あるいは、いやに威圧的にふんぞり返る教師と、まるでロボトミーをやられたみたいに、柔和に従順に、そして無感動に動かない生徒がいるだけ……。
 ぼくは、時として、その無感動な表情にうもれた眼の中に、まるで妖怪人間のそれのような、メラともえる青い炎を見るような気がすることがあって、なんだか背筋がゾクッとする感じなのです。

2.気がついたら教師やった

    ♣

 このごろやけに不景気というか、定常的な低成長時代となって、公務員志向が高まっているようです。
 ぼくが大学をでて就職した頃は、今から考えると、みんなウソみたいな状況でした。
 高度成長の波にのって、どんな中小企業でも、どんと設備投資するという時代でしたから、理科系の学生は引っぱりだこ。四月か五月になると、会社の重役が大学にやってきて教授に学生の紹介をたのみます。その学生を料理屋でごちそうして、ぜひ来て下さい。研究室造りますから、などという。わりと色よい返事をしていると、お小遣い足らなかったらいつでも云って下さい、なんていう。そんな時代でした。
 安月給の教師になろうなんて奴は、ほとんどいなかった。特に理科の教師のなり手がなく、国会では「理科教員特別待遇法」とかいう法律が成立して、理科教師の月給は、なんパーセントか高かったんです。
2-1.jpg そんな時に、教師になろうなんて奴は、ほんとの話、バカかよほどの物好きのように見られたもんです。その当時、卒業して教師になったのは、二五人のクラスメートのうち、ぼくと女の学生と二人だけでした。就職してしばらくして大学にゆくと、学部長の教授が、「教師になったてホントか。いやになったらいつでも止めて、言うてきてくれ。もっといいとこ世話したるから……」
と、まじめな顔していったものでした。
 でも正直に白状すれば、ぼくだって、なりたくて、というか、なる積りで教師になった訳じゃないんです。
 むしろ、小さい時から、先生だけにはなるまい、教師なんて死んでもなるか、そう思い続けてきた。そういった方がより正確かも知れません。
 ところが、ぼくは教師になり、いまもやはり教師です。これには、やはり、少々屈折した事情があるように思うんです。
 実は、ぼくのオヤジもオフクロも、どっちも教師で、とりわけオヤジの方は、ほんとに教師を絵にしたような、それは四角四面な教師でした。
 そのオヤジは、教員というのは尊い職業だ、とか、世の中どう変わろうと教員は安定している。お前も教員になれ、そう言い続けた訳です。そんなもん、絶対なったるか。ぼくとしてはそう反応したようです。
 だいたい、オヤジに云われてその通りにするということ自体、はなはだ面白くないことのように思えたし、聖職だとか安定しているとか、そうしたオヤジの考え方も気に入りませんでした。
 そうかといって、大学で五年間を過ごしても別に何になるという気も起らず、ただ山登りに熱中していたんです。就職する気もなし、そんならずっと大学にいようか。そんなぐうたらな気分のまま、大学に居残ることになって、泊り込みで研究をはじめていた四月半ば、一通の電報がきたんです。

    ♣♣

 大学の卒業式が近づいたのですが、ぼくは山岳部の後輩の春山合宿に参加する積りで、卒業式は失礼しようと思っていました。
 ぼくの先生の教授のノダマンは、
「あかんど、タカダ。そらお前、やっぱり卒業式ぐらい出んと。ぜ、ぜったいあかん」と、断固としていい張るので、しかたなくぼくは出ることにしました。
 合宿には、卒業式の日の夜行で、あとから合流することにしたんです。
 卒業式のあとで、祝賀会がありました。体育館に紅白の幕をはりめぐらした会場には、ビールが山と積んであり、都ホテルのボーイがひかえていたと思います。
 蜷川知事が出席していて、祝辞を述ベたあと、
「みなさんはこれから京都を担う方々です。どうか私にビールをつがしてください」と、一流の役者ぶりを発揮して、ビール壜をささげましたが、誰も遠慮して前にゆきません。
彼は、
「さあ、どうぞ、さあ」
と、いい続けているので、よしそれならと、ぼくは進み出て、ビールを受けました。それにつられてどっと皆んながとり囲みました。
2-2.jpg そこでぼくは、「胴あげ、胴あげ」と叫びました。ワッショ、ワッショと知事は胴あげになりました。
 ぼくのそばにいた誰かが、
「タカダ、落とそか」
というのが聞こえ、ぼくは少しあわて、
「あかん、あかん」
と叫びました。
 ただ酒を飲むなという学長の訓辞もなかったので、たらふくビールをくらったぼくは、そのまま、夜行列車にとび乗ったのです。
 早朝、富山着。バスにゆられてバンバ島に着き、ぼくはただ一人、吹雪の中を剱岳・早月尾根を登って、夕暮れに、二六〇〇米のテントに着きました。
 吹雪はずっと続いたので、ぼくは食糧を残すために、「食いのばし」を宣言し、ぼくたちは三日間ほとんど食わずに過ごしたんです。そして、五日目に出発し、東大谷の中尾根の初登攀という冒険的登攀を、一年生三人をつれて、二日がかりでやってのけました。
 四月の一三日頃、京都に帰り、そのまま大学の研究室に泊り込んでいました。
 数日した頃だったと思います。ぼくあての電報がきたんです。何の事やら分らぬまま、とにかくぼくは教育委員会に出頭した訳です。
「どうなってるんですか。あなた、生徒はみんな先生を待ってますよ」
 どうなってるのか、こっちが聞きたい位でした。とにかく、ぼくは福知山高校に着任が決まっているというのです。
「いや、行く気ありません。断わります」
「生徒はもう一週間待ってるんです。断わるにしても、向うに行ってからにして下さい」
 でも、どうしてこんなことに……。アッ、そうか。ぼくは思い当たったのでした。

    ♣♣♣

 とにかく行かんとしゃあない。行って、断わって直ぐ帰ってこよう。きょうの午後の汽車に乗って下さいという頼みを、「いや、きょうは駄目です。あすの朝発ちます」と、ぼくは冷たく返し、外に出ました。
 汽車の中で、ぼくは「くそったれ、ナラの奴」とつぶやいていました。
 彼のオヤジはたしか、福知山高校の定時制主事のはずでした。それに、一年後輩で、仲のよかったイゼキのオヤジは、やはりあの辺の指導主事だそうです。
 二人は、ぼくが、放っておいたらいつまでも大学でゴロゴロしている。なんとかしたろなどという手前勝手な、大きなお世話をやいて、理科教員欠乏の折から、ぼくを化学の非常勤講師にでっちあげてしまったにちがいないのです。
 汽車は福知山につき、ぼくはどんよりと重い灰色の空を見ながら、陸橋を渡って改札口へと歩いてゆきました。
 驚いたことに、どうして汽車が分かったのか、出迎へがあったのです。ナラ先生でした。「よく来て下さいました。生徒は首を長くして待っています」
「いや実は、ぼく……」
と、いいかけると、もう一人の先生が、
2-3.jpg「さあ、さあ、車が待たしてありますので‥‥‥」
と、ぼくを促して歩き出しながら、
「実は、学校へ行く前に、道順がその方がいいので、下宿を見て頂こうと思ってます」
 まあ断わるのは、学校へ行ってからにしよう、とぼくはその時思っていました。
「下宿は心当りを二つおさえてあるんです。一つは校門の真ん前で、近くて便利です。そこはPTA会長の家なんです。でも先生、もしかして、そこが気づまりかも知れないと思って、もう一軒、見つけてあるんです。そこは耳の遠いおばあさん一人いるだけの家なん、あ、ここです。着きました」
 ぼくは、そのおばあさんの家を見て、校門前のPTA会長の家を見てから、学校に着きました。
 どっちの部屋も、あんまり大差なく、その地にガール・フレンドもいないぼくとしては、耳の遠いおばあさんの方が、そんなにメリットがあるとも思えません。それより、朝寝坊のぼくとしては、校門前という近さは、決定的利点と思えたのです。ここなら、チャイムが聞える。
 考えてみれば、その時、ぼくにはもう、断わる気は全く失せていたのでした。
 こういう次第で、ぼくは府立福知山高校の、本校の夜間と川口分校と夜久野分校の三ヶ所で化学を教えることになったのです。
 非常勤とはいうものの、週二〇時間以上の授業があって、ひどい時には、日に三ヶ所を回るのですから、今から考えると、とてつもなく苛酷な勤務の様に思うのですが、その時、どうした訳か、全然苦になりませんでした。
 きっと、こんなもんや、と思っていたからなのでしょう。

    ♣♣♣♣

 朝、うつらうつらしていると、本校のチャイムが、キーン、コーソ、カーンと聞えてきます。
 ぼくは、寝呆け眼のまま福知山駅へゆき、汽車に乗ります。一つ向こうの駅が「上川口」で、川口分校は、そのすぐそばの小山の上にありました。
 そこで朝のうちに一・二時間の授業を済ますと、直ぐ駅にかけつけ、さらにもう一つか二つ向こうの駅まで汽車でゆくと、そこが「下夜久野駅」です。駅前の自転車預かり屋さんには、「夜久野分校」と書いた自転車が何台も置いてあり、適当な一台にまたがると、ぼくは砂利道を走りだしました。時々行きかうトラックの砂煙をあびながら、四キロほど走ると、夜久野分校に着く訳です。
 そこで午後の授業をやって、福知山に舞い戻ると、こんどは夜間の授業が始まります。ぼくが受け持ったのは四年生だったのですが、休み時間になると、みんな廊下にでて、スパスパとたばこを吸うんです。廊下には、灰皿替りに、バケツが並べてありました。半数近くが成人だし、禁止すると火災の危険があるので公認しているということでした。これはずっと後に知ったことなのですが、未成年喫煙禁止の法律ができたのは、明治の学制発布の後のことで、この法律が必要となったのは主に小学校に火災の危惧が生じたためだそうです。
2-4.jpg「ワシも吸うし、みんなも吸うてええぞ」そういって、ぼくは、化学の実験中もたばこを吸うことを許しました。授業の時には、講義がいつの間にやら、恋愛論をたたかわせることになったりして、このクラスは面白かった。ぼくが、学校を替ってから、荷物を取りに福知山に行ったとき、全員学校をさぼって、大宴会を開いてくれたのは、この連中でした。ぼくも飲んだくれて、その日に京都に戻れず、服屋の住み込み店員をしている生徒の下宿に泊ったんです。
 ぼくはこのように三つの学校をかけ持ちしていたのですが、本拠は川口分校ということになっていました。担任も持っていました。二年生でした。生徒に頼まれるまま、午後の授業を止めて、下の川であゆ取りをしたこともありました。
 この川口分校では、週三回の宿直が割り当てられていて、その時は、ぼくは下宿に帰りませんでした。用務員のおばさんが夕食やおべんとうを作ってくれました。旦那さんが魚の行商をやっているとかで、おかずはいつもおいしかった。
 この用務員さんに、可愛いい女の子がいました。五歳位だったと思います。このみゆきちゃんは、どうしてか、ぼくにとてもなつきました。ぼくがおベんと喰べてると、自分も小さなおべんとを持って横にやってきてたべるんです。
 夕闇があたりを包み始めると、ぼくは、たらいを校庭のど真ん中に運んで、そこで行水しました。小山の上の校庭は、さえぎるものもない満天の星空でした。
 気がつくと、みゆきちゃんも小さなたらいを引っぱってきています。お母さんにお湯を運ばせて、彼女はさっさと裸になると、ぼくとたらいを並ベ、おんなじように星を見あげていたんです。

    ♣♣♣♣♣

 初めて月給をもらって、あんまり多いのでびっくりしました。ほんとにどないして使おかな、と考え込んだ位でした。
 とにかく、福知山で一番大きなレストランに出掛け、トンカツで生ビールを飲みました。京都に帰って、高島屋で、ずっと以前からほしかったジレットのひげ剃りを買い、オフクロのみやげにチョコレートの詰め合せを買っても、まだお金は全然減っていませんでした。
 さて、変ないきさつで先生業を始めたぼくも、この頃には、この仕事がけっこう気に入ってきていました。かなり好き勝手をやりながら、こんなオモシロて、こんなに沢山お金もらえるんやから、結構な話や。そんな気がしていました。
 止めるのはいつでも止められる。そう思っていました。後になって、本採用の正式教諭になってからも、こうした気分はなかなか抜けなかったようです。
 やはり人間、初体験というか、初めが肝心で、そうしたものは、認識を規定してしまうようです。
 ぼくは、若い頃、ロぐせのように「文句あったら止めたるわい」といい、同僚から、
2-5.jpg「お前、それだけは言うな」と、何度も注意されたものです。
 もしかして、ぼくが、どっちかというと、太い態度の教師であるとしたら、その理由は、こうした、是非にといわれて教師になった最初のいきさつに関係していると思うのです。
 さて、一学期が終わり夏休みが近づく頃、ぼくは校長からの呼び出しを受けました。
「キミ、亀岡中学へ行きませんか」
 その時、ぼくの頭に浮んだのは、フトン袋の事でした。また、あのフトン袋や本などを運ばんならん。それにここで充分楽しい。
 「気が進みません」
とぼくが答えると、校長はケゲンな顔をして、
「でも、本採用ですよ。身分も確定するし、それに家から通える。いい話だと思いますよ」
といいましたが、ぼくは、
「断わって下さい」
と答えたのです。なんでも、亀岡中学の理科の女の先生が、自殺したのだそうです。補充がなくて困っているということでした。
 しばらくしてまた連絡があり、もう一度考え直してほしい。非常勤の期間は、ボーナスに算定されないのだが、最初から本採用ということで計算しますから……。そういう話です。さすがに、フトン袋運ぶのがめんどう臭いとも言えず、
「いや、そういうことではないんです。とにかくイヤなんです」
 しばらくして、また電話で、月給を一号俸上げますから、という話です。
 もうイヤとも云えず、ぼくは亀岡中学にゆくことにした訳です。

1.まずは、本音とその周辺

1-0.jpg    ♣

 つい最近、一人の高校生が、なんかの話の折に竹村建一の話がでたとき、
「あの人キライや」といったんです。
 少し前にも、友禅の型彫りをやっている大分昔の教え子が一緒に飲んでいる時に、やっぱりおんなじようなニュアンスで、「どうも感覚的に好きになれん」というのを聞いていました。
 ぼく自身は、べつにキライでもない。
 で、ぼくは、おんなじことを二回も続けてきいたこともあって、気になり、その高校生に、
「なんでキライやねん」と、たずねました。
「だいたい本音をはっきりいいすぎるみたい。そしてそれを人に押しつけすぎる」
「商売でもなんでも、あんまりはっきりいうと、自分の手の内を見せることになるし、うまくないでしょう」
 それはなんかちょっとちがう、とぼくは思いました。そういうやり方ができるのは、狭い社会集団の中で、お互いに何となく分りあえる場合だけではないか。はっきりせんと損する場合もある。ぼくがそういう風に反論すると、彼は、なお淡々と、
「やっぱり本音とたて前は使い分けんとあかんと思いますよ。本音ばかりでは世の中うまくいかんでしょう。大平さんだって、アメリカ行って、本音はいうてませんよ」
 ぼくは、「う−ん」と唸りました。
1-1.jpg 一つには、この頃のお行儀のよい、ちょっとアホみたいにみえる生徒の胸の中には、大人が想像もしない明晰なというかセコイというか、とにかくある見通しと割り切りがあると、少しは否定的に推定していたことが、ズバリ当ったような気がしたこと。もう一つには、どっちかといえば、「本音人間」に属するぼく自身、なんか合口を突きつけられたような気がした。さらには、今の学校は、やはりこういう若者を生みだすのか、といまさらのように思いました。そんないろんな理由で、ぼくは絶句したんだと思うのです。
 もちろん、人には好き嫌いがいろいろあって当然の話です。事実、その時、そばにいた別の高校生の一人は、「ワシは好きや」といい、その本音・たて前使い分け論の高校生に「お前会社入ったら出世するワ」とコメントしました。それだけで、しまい。絶対議論にはなりません。これが現代の風潮というのか。お互いに分りあっていて、決して争わない。十年前は、こんなものではありませんでした。口角泡をとばす議論が始まったものです。今の高校生は大人になったと単純に喜ぶべきなのでしょうか。
 ぼく自身、普通の時なら、もっとひつこく議論をいどんだと思うんです。でも、もうこの原稿をせっつかれている時でした。へたにやり合うと、混乱をきたして原稿書けんようになるかも知れん。反射的に、そんなビビリがきました。
 まあ、ぼくが、突っかけても、今日びの若者の彼は、まず乗ってこなかったとは思うのですが‥‥‥。
 それにしても、もう大分前の『山と渓谷』という雑誌の特集グラビア「高田直樹の山とその周辺」のうちの酒のんでる写真のキャプションに、〈談論風発、竹村建一ばりに何でもズバズバいう〉と書かれたぼくとしては、少々気になるやりとりではあったのです。

    ♣♣

 あの『山と渓谷』の特集グラビア「高田直樹の山とその周辺」は、もう何年も前のことです。
 ぼくは、さらに遡ること三年前から、その山の雑誌に連載をやっていました。「なんで山登るねん」。そういうケッタイなタイトルの、なんていえばいいのか、まあ強いていえばエッセイみたいな文章を書いていたのです。
 最初は一年位という話だったのですが、読者からの反響がけっこうすごくて、とうとう三年間書き続ける破目になりました。そして、その最終回に、いまいった特集グラビアがあったという訳。
 すぐ、この三年分の連載をまとめて、『なんで山登るねん』が出ました。これがまた、どういう訳か、すごく売れたのです。出版五日目に売切れ、重版ということで、担当のセツダさんは、
「社はじまって以来じゃないですか。大変なことなんですよ」
と、ぼくに電話してきました。
「よかったですね。二人とも、運がよかったんですよ」
と、ぼくがいうと、彼はすかさず、
「いやいや、運も才能のうちですよ」
といったものです。
1-2.jpg さて、本が売れ続けたのはよかったのですが、ぼくの内面はちょっと苦しくなりました。ずっと前から、ぼくには、山登りの世界では、本をだすと、そいつは駄目になるというある固定観念があったようなんです。それと、この「ぐうたら登山のすすめ」みたいな本を読んだ読者が想像するぼくは、多分、ぼくのほんの一部分にすぎない、という気もしました。
 なんか一発、すごい山登りをせないかん。そういう強迫観念にとらわれ始めた訳です。だいたいぼくは、その時までに、五回の海外遠征登山をやっていたのですが、成功したのは二回だけ。おまけに、それも初登頂ではなかったのです。
 それで、ぼくが選んだ山は、勝手知ったカラコルムのラトックⅠ 峰という7100米少しのすごい岩ばっかりの未踏峰でした。この山には、これまでに日本や外国の登山隊四隊が挑んで、みんな失敗していました。「極限の山」とも「攀れるはずがない山」ともいわれていたんです。ぼくは、隊員を集め始めました。一九七八年の秋口のことでした。最優秀と思われる登山家に日本国中電話して誘ったのです。そんなやり方は、誰もやったことはなかったのですが、すぐにメンバーが揃いました。なにしろ目標の山がよかった。優れた登山家ほど困難をめざすものなのです。
 でも隊員はみんな、所属するクラブが異なる、いわば寄合い世帯です。これまで、そうした混成パーティが成功した例は、まだ一つもなかった。
 巷では、タカダ隊は、キャラバンの途中で空中分解するといわれていたそうですし、だんだん尾鰭がついて、成田空港で大ゲンカ、ということになっていたんだそうです。

    ♣♣♣

 ちょうど、その頃、同じ出版社から『なんで山登るねん』の続編を書いてほしいという依頼がありました。そういう話は、この本が出た直後にもありました。一年後位に出したい。ぼちぼち初めてほしい、などといわれていたんです。でも、ぼくは、あんなんは、あれ切りや、そう思っていました。
 でも、「ラトックにはお金いるでしょう。出しますから。時間がなくなったら、ホテルに入ってもらいますから」とまで云われると、いやする訳にもいかなくなった。
 ぼくは、遠征出発前の忙がしい毎日を、グランドホテルから通勤しながら、『続なんで山登るねん』を、一気に書きました。
「こんども売れますかねえ」
と、ぼくがいうと、セツダさんは、
「大丈夫でしょう。ナオキの星は、まだ輝いているようですから」
 ラトックⅠ峰の遠征準備が、大詰めに近づき、メンバーは、個人ボックスを梱包し、その箱に、自分の名前と一緒に勝手な落書きをしました。ある隊員は「やるぞ」と書き、別の隊員は、Try onと書いた。恋人の名前を書いた奴もいたようです。
1-3.jpg ぼくは、成功しますようにというはかない願いを込めて、でもみんなに分らないようにウルドー語で〈ラトックにナオキの星を〉と書いたのです。ほんとの話、ぼくは成功するとは思ってなかった。万に一つ成功するかも知れない。なんとかやってやろうと思っていただけなんです。
 ところが、驚いたことに、ラトックは成功した。それも、六人ものメンバーが登頂するという大成功を収めた訳です。
 当事者のぼくが驚いた位ですから、巷の「空中分解説」を信じていた連中は、もっとびっくりしたことでしょう。
 友人のスポーツ誌の記者は、ぼくが東京に帰り着いた時、酒に酔った勢いでか、
「タカダセンセイ、申し訳ない。ぼくは失敗すると思ってました」
 そういうと、飲み屋の土間に土下座しようとした。いや、びっくりしました。
 ぼくの周りは俄然、騒やかになりました。色んな新聞などから取材の申し込みがあり、外国からの原稿依頼や、講演の依頼も増えました。ある全国紙の婦人部が、「現代のいい男」という特集に登場するよう頼んできたりして、ぼくは、ほんとに疲れました。
 春先になって、少しは静かになったと思っていたら、この原稿の依頼があったという訳です。
 ぼく自身、『なんで山登るねん』が、山登りの人達だけに売れているのではないことは分っていたし、家庭の主婦や、若者は、全然ちがう読み方をしていることも、何となく人から聞き知ってはいました。だから、「教育論を‥‥‥」という依頼は分らぬではなかった。
 でも、考えてみるまでもなく、ぼくは教育論が書けるようなご立派な教師ではありません。困ったなあ。けれどよく考えれば、ぐうたら教師の教育論もおもろいんではなかろうか。まあなんとかサマになるのかも知れん。そんな気もしました。

『いやいやまあまあ』について

『いやいやまあまあ』は、『なんで山登るねん』の教師版を書いてほしいという、京都新聞の依頼によって執筆した体験的な教育論です。
いやいやまあまあ表紙.jpg 1980年7月7日より9月30日までの約3ヶ月間、京都新聞夕刊の小説欄に連載されました。現職の教師がこうしたドキュメンタリーを新聞に載せるというのは、あまりないことであったし、なにしろ学校現場での出来事がリアルタイムな感じで報告されるので、大変な反響がありました。
 挿絵は、若い駆け出し時の山本容子さんで、この作品で彼女は第一回エイボン賞美術部門の賞を取りました。
 この作品は、ミネルヴァ書房より『高田直樹の体験的教育論・いやいやまあまあ』というタイトルで単行本として刊行されましたが、初版の一万部だけで再版はされず、絶版となっています。(ごく最近、アマゾンでプレミアがついて3800円で出ていたのを購入したという話を聞きました)
 挿絵を描いて頂いた山本容子さんからは挿絵アップの快諾を頂きました。

京都新聞連載予告記事→「次の夕刊連載」
京都新聞終了記事→連載を終えて

<目次>
1.まずは、本音とその周辺
 つい最近、一入の高校生が、なんかの話の析に竹村健一の話がでたとき、
2.気がついたら教師やった
 このごろやけに不景気というか、定常的な低成長時代となって、公務員志向が高まっているようです。 
naoki.jpg3.生徒も教師も問題がないのが問題
 夏休みがすんで、ぼくは亀中に行きました。
4.神のみが知る才能の限界
 一年もたつと、陸上部は、ずいぶんしっかりしたクラブになっていました。
5.教師らしくない大先生たち
 自宅から通勤することになって、それはいいですななどと人から云われましたが………
6.何事であれ現場主義がかんじん
 大学の五年生の時、ぼくは、教育実習で、桂高校にいったのです。
7.冬の第一ルンゼは透明の心境で
 今から二〇年以上も前のキッサ店のユーヒ代は、多分百円少々ではなかったかと思います。
naokibike.jpg8.ぼくはほんとに分身なのかなあ
 夏山のシーズンが近づいた頃、大学山岳部の監督をやっていたぼくは………。
9.一人になって一人で泣けばいい
 レオン・ブルムの「結婚論」に共鳴し、結婚なんてするとしても三〇代後半や、
10.ルールはルール、モラルはモラル
 今から二〇年近くもまえ、ぼくが赴任した桂高校は、木造の校舎で、制服・制帽・二足制でした。
11.制服は一種の軍服かも
 新年度が始まり、ぼくは三年生の担任となりました。
12.学校生活監獄暮らし
 学園紛争の大さわぎが終息して、高校がだいぶ平静をとりもどした頃…………
toppage.jpg13.教師こそ主体的な旅を
 東京オリンピックの次の年、一九六五年、ぼくは、カラコルム・ヒマラヤの登山に行けることになりました。
14.みんなでやりましょう
 化学実験の時、試験管に試薬を注ぎ入れる操作があったとします。
15.なんでバイク乗るねん
 あれはたしか、栄作ちゃんか角栄ちゃんの頃だったから、もうずいぷんと昔のことです。
16.ほんまに腹たつなあ
 自分の子供が学齢期に達し、学校にゆくようになると…………
17.一人旅は顔つきまで変える
 朝寝坊して、昼前に出発し、岩を登って遊んでいたら、日が暮れました。
18.バクチ事件のてんまつ
 あれはいつ頃のことだったか。
19.問題生徒はぼくのカウンセラー
 大阪のある一流ホテルから学校に電話がかかり…………。
20.便りのないのが無事の便り
 ある秋の深い日の放課後、
21.「四ない運動」は思考の暴走かも
 もう十年近くも前、バイクに乗り始めた頃、ぼくは面白いことに気付きました。
22.ほんとの教育者てあるんか
 学生の時、春の穂高に登っての帰り路、松本駅にたどり着き…………
23.教師はみんな特高かな
 ひところ、子供の自殺が相次いで起り、新聞誌上を賑わしたことがありました。
「おわりはたて前で」ではなくて

連載を終えて(京都新聞)

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