「ジャニスは、どうしてるのかなぁ。しばらく電話もメールもないし」という家内の言葉で、ジャニスのことを思い出しました。彼女のことをヤマケイの雑誌に書いたことも思い出し、本棚を探してそれが山渓別冊『ヤマケイ関西』であったことが分かりました。
<京都生まれの岳人、高田直樹氏。'70年代『山と渓谷』で連載された「なんで山登るねん」でおなじみの軽快な口調で、北山の思い出を語る。>というリード文で始まるエッセイ『北山のぼくの好場(すいば)』を紹介します。
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1987年、78歳でピッツ・パディレーを攀るカシン
(パキスタン山岳会から、リカルド・カシンの訃報が届いた。イギリスのTelegraph紙からの転載らしかった。我が国のブログには、あまり詳報がないので、ここに載せることにした。
Riccardo Cassin, who has died aged 100, was one of the most prolific mountaineers of the 20th century, with 100 first-time ascents among his 2,500 climbs; he also became one of Italy's leading makers of climbing equipment through his internationally-known Cassin brand.
(リカルド・カシンは100歳で亡くなった。彼は、攀った2500のルートのうち100が初登攀という20世紀に於ける最も多産なクライマーの一人であった。それのみならず、カシンブランドという世界的に知られるイタリアの登攀用具の一流メーカーでもあった)
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<クンジェラーブ峠越えでフンザへ>
現在、中国からパキスタン・フンザに向かう旅の途中です。
関空から上海経由で西安へ。西安・ウルムチと泊まりを重ねて、現在天山山脈の上をカシュガルへ向け飛行中です。
カシュガルを出た後は、タシュクルガンで一泊して、クンジェラーブ峠を越えてフンザに入ります。
クンジェラーブ峠越えは、今回で3度目です。
この前の時は、中国共産党創立80周年記念行事で、新彊旅行協会の王さんからタクラマカン砂漠縦断の旅に招待された時でした。
この年には、ちょうど関田・角倉・岩佐君らとパキスタンに行く約束をしていました。そこで家内を含めた5人で参加したいのだがと返事をしたら、日本・中国間の飛行機代はあなた一人しか負担できないけれど、それでよろしければ、みんな招待しましょうという返事が来ました。
こうして、ぼく達5人は、パトカ-5台に先導されて、外国人に初公開されるタクラマカン砂漠縦断とタクラマカン半周の約10日間の旅を楽しむことが出来ました。
あれは2002年、それから6年しか経っていないのに、中国の変化は驚くべきものがあります。
わずか6年での中国の変化は目を見張るばかりで、西安もウルムチもカシュガルもまるで別の町のようです。泊まっているホテルは、みんな去年から今年に建ったものばかりです。
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昨年(2008年)1月から始まった週刊日本百名山も今年の正月で完結したようです。
本棚で、前回の企画だと思うのですが、同じ週刊日本百名山を見つけました。黒部五郎岳の原稿を書いたのを思い出しました。
2001年に朝日新聞社の依頼で[週刊]日本百名山No.15 黒部五郎岳 笠ヶ岳に書いたエッセイです。
同じ册の笠ヶ岳の項には、平林克敏さんが書いておられます。氏には、今回の京都府立大学山岳部の鳴沢岳遭難事故の調査委員会の委員長をお願いしております。それにしても、あの頃の黒部源流はほんとに別世界の異次元空間でした。懐かしくなって、アップすることにしました。
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文部省登山研修所が、研修生の教育のために作った16mm映画です。1973年の夏に基礎編、1974年の夏に応用編の撮影がいずれも劔岳のロケで制作されました。
登山研修所は富山県立山の麓、千寿ヶ原に1967年に設立された文部省の施設です。大学山岳部リーダー、社会人山岳団体の指導者や高校山岳部の顧問を対象に登山の研修を行うためのものです。
この施設の専門員となった南極越冬隊帰りの佐伯富夫氏の要請で、ぼくは第一回の大学山岳部リーダー研修から始まって永くインストラクターを務めました。
もともとぼくは、この映画の基礎編だけに出演するはずだったのですが、なぜか応用編にも出て下さいと言われ、エベレスト南壁から帰ってきたばかりの重廣恒夫氏と組んでチンネを攀ることになりました。
後で分かったことなのですが、基礎編のラッシュを見た山の大御所、槙有恒氏が「この人の登りは素晴らしい。応用編にもこの人を使って下さい」という鶴の一声で、ぼくの再出演が決まったのだそうです。その結果、外された人はきっと怒ったのだと思います(それが誰だったかは、その後なんとなく分かったのですが)。
その後1979年に、ぼくは重廣君にラトック1峰攻略を持ちかけ、一緒にこの難峰に向かうことになりました。(海外登山-府大山岳会50周年記念誌
「回想のラトック1峰」参照)
基礎編1 応用編1
基礎編2 応用編2
基礎編3 応用編3
乗越はこの時期にしてはえらく混雑していた。「点の記」と記した幟を持っている人が居り、撮影隊の大グループだと知れた。到着して休んでいるぼく達にやって来た撮影隊の一人が、映画「点の記」の宣伝パンフレットを手渡してくれた。彼らも劔澤小屋に入るらしかった。
別山乗越でしばらく休憩して、眼下に見える劔澤小屋を目指して下る。最初の水平のトラバースして岩場のルートをくだり、劔沢・真砂の大滝で遭難死した富山大の地質学者、石井逸太郎博士の遭難碑を過ぎると、道はやや平坦となる。
突然、「こんにちは。いやあ、ここからの眺めは素晴らしい」という声が聞こえた。見ると男が一人、道の左手下方に寝そべっている。「いやあんまり寝心地の良さそうな岩があったのでねぇ」と一人べらべらしゃべりかけてくる。なるほど男は、平らな長方形の岩の上に横たわっていた。
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ぼくの発案で、大学時代の恩師野田先生の追悼文集を作ることになり、それに載せるために書いた文です。
野田先生の思い出
考えてみれば、ぼくは大学の教授と学生との会話として、今では信じられないようなやり取りをしていたものだ。そんな気がしています。それは古きよき時代の牧歌的雰囲気の大学だったからなのか。
野田先生とのやり取りの記憶で最初のものは、多分教養実験に関するものだったと思います。
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2008年のゴールデンウィーク、いつものリモネットに行きました。
いつもと違って12日間という短い期間の旅でした。
まずは久しぶりにプラハを訪れ、パベル夫妻との旧交を温めることが出来ました。
1.
プラハへ〜アムステルダムでの道草〜
2.
プラハに着く
3.
チェコ・フィルを聴く
4.
カレル王の王冠
5.
パリ経由ニースからリモネット
6.
リモネーゼとクネーゼ
7.
リモーネの人々
8.
歯医者カンタ・カルロ先生
9.
イプシロンのルーフキャリー
10.
ルーフキャリー、遂にゲット!
2007年10月23日〜11月9日、緊急事態宣言下のパキスタンを旅しました。
これまでは、バンコックを中継地にタイ・エアーでカラチに入るのが常だったのですが、
今回初めてインド・ニューデリー経由のコースを取りました。
インドの今日を見てみたいと思ったからです。
0.
成田のInternet Access コーナーにて
1.
インドに着く
2.
パキスタン・カラチに着く
3.
新聞(DAWN)を読む
4.
イスラマバードへ
5.
ペシャワールにて
6.
イスラマに戻る
7.
戒厳令はない
8.
ナジールに会う