16年ぶりの劔澤小屋

16年ぶりの劔澤小屋

監督岩(小).jpg
タイトル通りの話であるが、まづは16年前の話から⇒プロローグ 

本題⇒本題

<高田直樹の異国四景>(1993年〜1994年)

きらめき春表紙2S.jpg この記事は、古くからの付き合いの、高岡市市役所の開洋子さんの依頼で、高岡文化情報誌「きらめき」(季刊)に執筆したものです。
 定年まで6年を残して退職し、さあもう気兼ねなく自由に海外に出れるとばかり、アメリカ、ヨーロッパと飛び回っていた頃のことです。ここでは、この辺り前後のことを書いています。
 タイトルは「異国四景」ですが、5回の連載となりました。

連載第1回 「バンコックの40日」
連載第2回 「新しい門出、スイスの旅」
連載第3回 「おじさんのホームステイ」
連載第4回 「12年目の中国」
連載第5回 「アムステルダムからプラハへ」
番外1 「プラハで」
番外2 「パベルとカントリーハウスへ」

『いやいやまあまあ』について

『いやいやまあまあ』は、『なんで山登るねん』の教師版を書いてほしいという、京都新聞の依頼によって執筆した体験的な教育論です。
いやいやまあまあ表紙.jpg 1980年7月7日より9月30日までの約3ヶ月間、京都新聞夕刊の小説欄に連載されました。現職の教師がこうしたドキュメンタリーを新聞に載せるというのは、あまりないことであったし、なにしろ学校現場での出来事がリアルタイムな感じで報告されるので、大変な反響がありました。
 挿絵は、若い駆け出し時の山本容子さんで、この作品で彼女は第一回エイボン賞美術部門の賞を取りました。
 この作品は、ミネルヴァ書房より『高田直樹の体験的教育論・いやいやまあまあ』というタイトルで単行本として刊行されましたが、初版の一万部だけで再版はされず、絶版となっています。(ごく最近、アマゾンでプレミアがついて3800円で出ていたのを購入したという話を聞きました)
 挿絵を描いて頂いた山本容子さんからは挿絵アップの快諾を頂きました。

京都新聞連載予告記事→「次の夕刊連載」
京都新聞終了記事→連載を終えて

<目次>
1.まずは、本音とその周辺
 つい最近、一入の高校生が、なんかの話の析に竹村健一の話がでたとき、
2.気がついたら教師やった
 このごろやけに不景気というか、定常的な低成長時代となって、公務員志向が高まっているようです。 
naoki.jpg3.生徒も教師も問題がないのが問題
 夏休みがすんで、ぼくは亀中に行きました。
4.神のみが知る才能の限界
 一年もたつと、陸上部は、ずいぶんしっかりしたクラブになっていました。
5.教師らしくない大先生たち
 自宅から通勤することになって、それはいいですななどと人から云われましたが………
6.何事であれ現場主義がかんじん
 大学の五年生の時、ぼくは、教育実習で、桂高校にいったのです。
7.冬の第一ルンゼは透明の心境で
 今から二〇年以上も前のキッサ店のユーヒ代は、多分百円少々ではなかったかと思います。
naokibike.jpg8.ぼくはほんとに分身なのかなあ
 夏山のシーズンが近づいた頃、大学山岳部の監督をやっていたぼくは………。
9.一人になって一人で泣けばいい
 レオン・ブルムの「結婚論」に共鳴し、結婚なんてするとしても三〇代後半や、
10.ルールはルール、モラルはモラル
 今から二〇年近くもまえ、ぼくが赴任した桂高校は、木造の校舎で、制服・制帽・二足制でした。
11.制服は一種の軍服かも
 新年度が始まり、ぼくは三年生の担任となりました。
12.学校生活監獄暮らし
 学園紛争の大さわぎが終息して、高校がだいぶ平静をとりもどした頃…………
toppage.jpg13.教師こそ主体的な旅を
 東京オリンピックの次の年、一九六五年、ぼくは、カラコルム・ヒマラヤの登山に行けることになりました。
14.みんなでやりましょう
 化学実験の時、試験管に試薬を注ぎ入れる操作があったとします。
15.なんでバイク乗るねん
 あれはたしか、栄作ちゃんか角栄ちゃんの頃だったから、もうずいぷんと昔のことです。
16.ほんまに腹たつなあ
 自分の子供が学齢期に達し、学校にゆくようになると…………
17.一人旅は顔つきまで変える
 朝寝坊して、昼前に出発し、岩を登って遊んでいたら、日が暮れました。
18.バクチ事件のてんまつ
 あれはいつ頃のことだったか。
19.問題生徒はぼくのカウンセラー
 大阪のある一流ホテルから学校に電話がかかり…………。
20.便りのないのが無事の便り
 ある秋の深い日の放課後、
21.「四ない運動」は思考の暴走かも
 もう十年近くも前、バイクに乗り始めた頃、ぼくは面白いことに気付きました。
22.ほんとの教育者てあるんか
 学生の時、春の穂高に登っての帰り路、松本駅にたどり着き…………
23.教師はみんな特高かな
 ひところ、子供の自殺が相次いで起り、新聞誌上を賑わしたことがありました。
「おわりはたて前で」ではなくて

連載を終えて(京都新聞)

ヨーロッパの旅とスキー(2007冬)

2007年雪不足のヨーロッパを雪を求めてイタリアからフランスへ。
その後、ベルギーのブリュッセルからSPAを訪ねた記録です。mixiより転載しました。

IMGP3683.jpg雪不足のイタリア
クーネオのレストラン(1)
クーネオのレストラン(2)
ニースで盗難に遭う
トリフご飯を食す
歯医者さんに行く
Thalys車中より
シャモニーに行く
ブリュッセルでの食事
SPA(スパ)語源の町へ行く
無事帰国

久しぶりのパキスタン(2006年秋)

 2006年の10月、3年ぶりにパキスタンを訪れ、カラチからイスラマバードに飛んだ後、急に思い立って驚異の進展を遂げるドバイに向かい、夏の砂漠の真ん中の人工スキー場でのスキーを楽しみます。
 そして帰途、バンコックに立ち寄った記録。mixiに載せたものを転載しました。

DSC00201_1.jpg久しぶりのパキスタン(1)
久しぶりのパキスタン(2)
久しぶりのパキスタン(3)
久しぶりのパキスタン(4)
久しぶりのパキスタン(5)
ドバイへ
mixiはアンモラルサイトか
ドバイのスキー
バンコックから帰国

アメリカ旅行記(2005年秋)

 アメリカ・ピッツバークに留学中の友人のS君を訪ねてから、東海岸のニューヨーク、西海岸のヨセミテへと巡った2005年秋のアメリカ旅行の記録です。当時友人に送ったメールから取りました。
 S君は、かつて私が龍谷大学の非常勤講師として教育情報処理の講座を担当していた時の助手でした。その時、彼は大阪大学大学院で心理学を専攻しておりました。四国は土佐出身の彼は、坂本龍馬もこんな男だったのかもしれないと思わせるような快男子で、講義が終わった後は連日のように、私の会社に同行し、コンピュータをしたり酒を飲んだりしたものです。
 その後、彼は警察庁のキャリアーとなり、某研究所の職員となります。この関係で、私は犯罪データベースを作ることになりました。
 この旅行記は、帰国が近づいたピッツバーグのS君を訪ねたのを皮切りに、東海岸から西海岸へと飛んだ時のものです。

DSC00004_1.jpgアメリカより(1)
アメリカより(2)
アメリカより(3)
アメリカより(最終回)

京都府立大学山岳会50周年記念誌と海外登山

 2007年5月末に開催された京都府立大学山岳会50周年記念祝賀会で配布した記念誌「京都府大山岳会半世紀の歩み」に掲載した作品などです。
 「コングール峰・戻らなかった三人とぼくの最後の遠征登山」は、あれから26年が経過して初めて書けた原稿です。これは、記念誌には掲載されませんでした。
 ラトック1に関する2つ、『回想ラトック1峰』は、今回記念誌用に書き下ろしました。『ラトック1峰遠征を終わって』は、遠征終了後に日本山岳会の求めに応じて、書き下ろしたものです。

1. SWATマナリ・アン1969―マナリ・アン(マナリ峠)の位置の同定
2. ラトック1峰遠征を終わって(日本山岳会機関誌「山岳」より転載)
3. 回想ラトック1峰
4. コングール峰・戻らなかった三人とぼくの最後の遠征登山
5. 回想の東大谷(山と渓谷社写真集「日本の山と渓谷」第7巻の巻頭エッセイ)

リモーネスキー場便り(2004年冬)

 むかしの山岳部時代のザイル仲間、角倉との積年の約束を履行することにようやくなりました。
 行きつけのイタリアのリモーネ・ピエモンテスキー場に行くことになりました。
 古希に手の届く者たち、でもスキー歴は50年を越えている。そんなグループの珍道中でした。

No.1「オジンのスキーツァー出発」
No.2「ホテル・エクセルシオール」
No.3「イタリアのスキー場とイタリアンスキー」
No.4「府立大学メーリングリストより」

イタリア旅行記(2003年夏)

 リモネットのアパートに初めて滞在した時の記録です。
 アパート設備を整備しなければならず、工具などを取り揃えたり、木工の材料を調達するために連日クーネオの町へ往復しました。
 その合間には、冬のゲレンデや裏山を歩き回りました。
 終わりがたに、チェコのブルーノにいるパベルを訪問しました。
 7月4日 イタリア暮らしの始まり
 7月5日 リモネット暮らし(1)
 7月6日 リモネット暮らし(2)
 7月7日 リモネット暮らし(3)
 7月10日 イタめし
 7月12日 雨上がりの散歩
 7月14日 ピエモンテワイン
 7月20日 チェコのブルーノに到着
 7月21日 パベル訪問


アフガン難民支援レポート(2002年秋)

 妻の秀子は、銀婚式の記念旅行にと娘より送られたエアチケットでパキスタンを訪問した時より、アフガンラグやペルシャンカーペットに魅せられ、これがきっかけで絨毯の輸入ビジネスを始めました。
 アフガニスタン紛争に伴うパキスタンへの難民の報道に接し、何か役に立つことを始めたいと思い立ち、顧客に呼びかけ寄金を募りました。
 助力を要請されたぼくは、パキスタンの友人の中で、ムシャラフ大統領の親友のパルベイツ・フセインに協力を依頼します。
 この報告は、2002年の秋、ぼくたち夫婦と、ぼくの教え子の岩橋君と土田君の4名がパキスタンに赴き、パキスタン・アフガニスタン国境地帯で、いわゆるトライバルテリトリーといわれる普通の人間は近づけない地域の難民キャンプを訪問し、いかなる援助が最も有効かを探った時の記録です。
 当時友人などに送ったメールより転載しました。

DSC00014.jpg アフガン難民支援レポート(1)
 アフガン難民支援レポート(2)
 アフガン難民支援レポート(3)
 アフガン難民支援レポート(4)
 アフガン難民支援レポート(5)
 アフガン難民支援レポート(6)
 アフガン難民支援レポート(7)
 アフガン難民支援レポート(8)
 アフガン難民支援レポート(9)
 アフガン難民支援レポート(10)